佐賀県唐津市浜玉町大野・飯塚

 

1EC970822■  佐野裕子

1LA97250■  水原菜穂子

1AG96224■  水田春子

 

○大野について

・しこ名一覧

    大杣(オオソマ)

       下構(シタガマエ)

*今坂    堀切(ホリキリ)

       金久保(キンクボ)   大野

       東(ヒガシ)

 

〈田畑〉下構  − タテイシ    立石

          アラバタケ   あらばたけ

          タカイシガキ  高石垣

    堀切  − タンダ     反田

    金久保 − ウエンカド   上の角

          イデンマエ   井手の前

    東   − ナカノ     中野

          タケ      嶽

 

・しこ名の由来

 タケンマエ・・・嶽の前にあるから

 タテイシ・・・石がゴロゴロあったから

 タカイシガキ・・・昔床屋さんだったから

 イデンマエ・・・昔家の前に井手があったから

 

〈大野の用水源〉

大野の人は用水源として大野川と椿山の溜池を利用していたらしい。大野川は途中分かれて岩野へも流れており、それは岩野川と呼ばれている。これらの水源のおかげで大野の人々が水不足に悩むことはほとんどなかったという。よって昔の配水慣行や約束事は特になかったらしい。

 

〈大野の農作物の変遷〉

 昔は田んぼばかりだった。特に原田(ハルダ)のあたりは日当たりがよいため、1等田だったという。一方山の上のほうは日当たりの関係からできはよくなかった。

 40年ほど前からは収入のよいみかん栽培へと移り変わっていった。今では田んぼは下の方(盆地か)の日当たりの良いところでしか行われてない。3年前の大干ばつのときでもこのあたりでは水不足に困ることはなかった。なぜならみかんは乾燥していた方が酸味が出ておいしくなるからだ。ただみかんの木が少ししおれたが枯れることはなかった。普段はみかんの木に水をまくことはしないが、このときばかりはスプリンクラーで水をやっている家も数軒あったという。スプリンクラーは山の上方に水槽があり、そこから水を引いている。

 10年ほど前からはみかんをやめて、いちごがつくられるようになった。理由は収入の面でみかんよりイチゴの方が安定しているからだという。いちごは雨に当たると駄目になるため、ハウス栽培がされている。

 今では70軒あるうちの6軒がいちご、56軒がハウスみかんを栽培しているという。農業が盛んなところだったが、最近は近郊の町に仕事に出ている人も多い。

 今後のいちご、みかん畑の行方はどうなるのだろうか・・・。

 

〈大野の水利について〉

昔は鳥巣の椿山にあるため池から土管で田んぼに水を引いていた。そこは大野の飛び地である。大野の東に住んでいらっしゃる脇山敏郎さんのお父さんが中心となって水を引いてきたそうだ。このことを記念した銅像もたてられている。

 

各家庭には西のおとしの谷からパイプで水を引いてきている。井戸のある家もある。井戸水はとてもきれいとよく言われているらしい。(但し、検査していない)

 

 昔の水利慣行や約束事については前述したとおり水争いはなかったらしい。水がとても豊富なところなので水に困るといったことがなかったのだろう。旱魃などの被害も他と比べるとほとんどないに等しい。

 

〈大野の祭祀について〉

 大野には今坂神社があり、この地域の祭祀の中心となっている。今坂神社は武雄神社の氏子であり、毎年決まった時期に祭りが行われている。

 128日の祭りは昔から続いており、主に五穀豊穣を祝うものだ。魚や米や塩などを供える。今坂神社には神主さんがいつもいるわけではないので祭りのときごとにどこかから来てもらっているという。この神主さんが弓矢を3本ひきお払いをする。

 他には春の祭り、秋の祭りも行われている。

 また「むじわくぐり」という無病息災を祈願する祭りも行われている。これはかやのようなもので輪をつくり、これをくぐることによっておはらいができたというものだ。昔は子供から大人まで多くの人々が参加するお祭りで、参加できない人がいれば、その人の服を持っていって代わりにくぐらせたという。最近では参加者が減り、1軒から1人代表で行く程度となった。

 各家庭ではお伊勢様やお大師様をまつっている。

 4月と8月の21日はお大師様の命日で、大野の村人は野菜などを持ち寄って夕方集会所で精進料理を食べる。料理は金久保と東が1年交代で担当する。

 

○飯塚について

〈田畑〉オオゼマチ  大ぜまち

    イシワリダ  石割田

    タロラ    たろら

    ウエンタ   上の田

    タツノツジ  タツの辻

    ウランサコ  裏の坂

    エンシヤンダ えんしゃん田

    ハルダ    原田

 

〈屋号〉コウラ    こうら

    タニ     谷

    シンタク   新宅

 

*古瀬(飯塚)の正式な地名

 大阪(大阪頭) オオサコ(オオサコガシラ)

 払畑     ハライハタ

 唱滝     ナルタキ

 松屋     マツオ

 岩野     イワノ

 

・しこ名の由来

 オオゼマチ・・・昔田んぼを「ぜまち」と呼んでいたらしい。

 イシワリダ・・・昔石ばかりの土地で、石を割って田を作った。

 エンシヤンダ・・・えんさんのたがなまった。

*田んぼは「一美さん方の大阪」のように呼ぶことが多い。

 

〈飯塚について〉

話を聞いた人 脇山一美さん(昭和13年生まれ現在59)

飯塚というのは古瀬の一部である。飯塚の隣には岩野というところがあり、一美さんは底に住んでおられる。

 

〈用水源〉

飯塚・・・猪堀の滝を水源とする松尾川

岩野・・・大野川の支流である岩野川と岩野の堤。しかし、岩野の堤は現在では畑になっている。

 

〈村の配水慣行・約束事〉

水は上の方から下の方に流れていくため、上の方はあまり水を取りすぎてはいけないと

いうこと。

 

〈村の耕地〉

昔は田んぼばかりであったが、今ではみかんの商品価値の方がたきため、みかん畑ばかりになっている。しかし、山手の方は昔からみかんのだんだん畑であった。一方、水田は家の近くにあったそうだ。40年ぐらい前から佐賀県側がみかんの栽培を奨励し始めたので、県をあげてみかんを作っている。昭和40年以降から、リンゴ、キウイ、梨、ぶどうなども作っている。お話を聞いた脇山一美さんも岩野から2kmあるところに観光農園一の里というりんご園を経営されており毎年夏には観光客で賑わっているそうである。10月上旬にはみかん狩もでき、来年からはぶどうを再来年からは梨も栽培し始めるそうだ。この、「一の里」がある土地も、昔は田んぼであり、一美さんも幼い時は、牛を連れて、農具を持って、はるばる岩野から通っていたそうである。エンシャン田、上の田が下流にあるため、一番良く米が取れていた。大ぜまちも結構取れていた。一方、タツの辻などの山手のほうではあまりとれていなかった。理由としては、まず、下流のほうが日当たりが良いということ。また、秋作には関係ないことであるが、春作のときには、山手の方は水が冷たいので、初期生育が遅れるということが挙げられる。ほとんど乾田であり、麦作も行っていた。また、菜種も裏作でつくっていた。化学肥料が入る前には、硫安からとれる窒素、過燐酸石灰からとれる硫酸りん、魚や動物の骨から取れるカリウムに有機質の油かすである菜種油を自分のうちで配合していた。まるで、魚の腐ったような匂いがしていたそうである。それ以前には、人糞を肥料にしていた。冬のうちに田んぼや畑に掘って入れていた。当時、大変人糞は貴重なものであったため、リヤカーを持って各家庭や学校に人糞を取りに来る人がいた。その代わりに、子供たちはおまんじゅうをもらっており、そのまんじゅうを「しょうべんまんじゅう」と呼んでいたそうだ。多分学校側にはお金がいっていたが、さすがに子供たちにお金をやるわけにはいかないので、そのお金でまんじゅうを買って与えていたのだろうと一美さんはおっしゃっていた。

 

〈祭祀について〉

飯塚・・・中原にある住吉神社の氏子

岩野・・・今坂神社の氏子

 

猪堀の滝の神社にはたくさんの神々を祭っている。よって、たくさんのお祭りがある。猪堀の滝というのは、京都の人である神名行者が諸国漫遊していて山奥の多岐に立ち寄った際に、開発したものである。この人をたたえて8月に祭りがある。記念碑もあるそうである。これは家事が起きないように祈願しているそうである。岩野にある毘沙門天にちなんだ祭りもある。これは年2回2月と8月に行われ、近くの神社から神主がお参りに来る。2月は豊作祈願で、8月は豊作のお礼ということだ。また、このとき。集会場でご馳走を食べるそうである。年間で、飯塚、岩野のビッグイベントといえば、山開きと山閉じであるそうだ。猪堀の滝は毎年多くの観光客が訪れるため、夏休み前の6月に浜玉町町長をはじめ、偉い人を50人くらい呼んで山開きを盛大に行う。山開きの前には道を行きやすくするため、草刈などの多くの労力を使っているそうだ。山開きの際に、さかずきをくみかわすそうである。山閉じは、夏休みあとに行われるのであるが、山開きほど盛大ではなく、内輪の人たちだけで行われる。これら山開きと山閉じの2つの行事は、飯塚と岩野の人たちのみが関係する行事であって、古瀬や平原などの人たちは一切ノータッチである。

 

〈村の道〉

区長さんや婦人会会長は平原や古瀬にいたため、どうしても行く必要があったが、平原や古瀬に行く道にはたくさんのお墓があり、また家もなかったため、大変恐ろしかったそうである。また、岩野には脇山姓の方ばかりなので、今坂の方から分かれたそうである。そのため、岩野から今坂への往来もかなりあったようだ。牛を連れて道なき道をも行き来していたそうである。5,6年前に新しく整備された道ができ、今ではみんなそこを通っているらしい。一美さんのお孫さんたちもその道を通り、平原小学校まで通学しているそうだ。

 

〈干魃、災害について〉

かんばつがあると、みかんがしなびるため(?)かえって上等なみかんができるそうである。だから、ちょっとぐらい水不足の方がちょうど良いとおっしゃっていた。今までに田んぼが枯れたほどの干ばつはなかったそうである。第一干魃ばかりで田んぼが成り立たないくらいなら、最初から果樹園になっていただろうとおっしゃっていた。それに水の不足しそうなところにはみかんを最初から植えていた。また三構(みがまえ)という入会山のおかげで水不足の心配はない。この三構は佐賀県一の入会山で、植林を行っているそうである。水不足よりも土地柄上、土砂崩れなどの水災の方が恐ろしいらしい。昭和47年の67月に大水害があったそうである。当時一美さんは消防団の部長をなさっていたので、皆を公民館に避難させたそうである。古瀬だけで48件被害を受けたらしい。復帰には34日がかかって大変だったらしい。

 

一日の行動

8:15 集合 多少雨っぽい。心配だ。

 8:40 出発 バスの中ではひたすら寝る。

10:30 バスを下りる。 とりあえず、大野がどこなのかを調べなければと思っていると、近くの家に女の人がいたので、住宅地図を見せて聞いてみた。すると、そこが大野だった。そのままその方、脇山敏枝さんのお話をうかがった。

11:30 脇山さんにお礼を言って別れる。

11:50 納骨堂にて昼食

農作業中の方に屋根のあるところ(雨が降っていたので)で、昼食をとれそうな所を尋ねると、「お宮さんに行けばいい」と言われて、探してみたけれども、なかなか見つからない。いっとき歩き回っているとお寺のような神社のような建物が見えてきた。「お宮さんに行けばいい」とおっしゃった方は「中に入って食べていい」ともおっしゃったので建物の入口のドアのひもをほどいて中に入った。すると納骨堂だった。私たちは納骨堂のことをおっしゃっていたと信じて昼食をとった。そしてレポート提出の打ち合わせを行った。

12:10 納骨堂をでる

納骨堂ではおさいせん、お参りをすませ、ドアの紐を下の通りにくくった。地図ではすぐ近くに今坂神社があるはずということでほんの少し歩くと、すぐにあった。神社のお堂(?

)には入口に扉があるわけでもなく、本当に勝手にあがって昼食でもとれそうなところだった。そこでもお参りをしてあとにした。そして飯塚へ。

12:30 道に迷う

大野と飯塚は遠くはないが、2つの村をまっすぐつなぐ道などはない。地図にはない道がたくさんあり、変な坂道をのぼっていってしまった。人はいないし、あるはずの家もない。3人とも、ここで体力を消してしまった。来た道を戻って、前と別の道を行くことにした。

12:55 進藤悌宏さん宅着

    留守だった。

13:00 脇山里美さん宅着

事情を説明すると、脇山一美さんを紹介してくださった。

13:10 みかんをもらう

歩いていたおばあさんに道を尋ねると、教えてくださってついでにみかんをいただいた。ありがとうございました。

13:20 脇山一美(かずみ)さん宅着

変な学生の質問にもにこやかに答えてくださった。一美さんの家には可愛い男の子が2人いて一緒に聞いていた。すると、一美さんが経営されている「一の里りんご園」の話も聞いた。パンフレットを何枚かいただいたので、一つレポートと一緒に入れておきます。となかでコーヒー牛乳をいただいた。3人ともかなり疲れていたので、甘いコーヒー牛乳はとてもおいしかった。随分長い間お話をうかがった。大通りへの道も親切に教えてくださった。

15:20 待ち合わせ場所着

既に来ていた下東、久光組と合流し、お店の前で待っていると、お店の方が帰ってきて、店の中に入れてくださった。座って待つことができてホッとした。すると車(軽トラ)で一美さんがやってきて「りんご狩にきたら、電話すれば迎えに来る。」とおっしゃった。やっぱり笑顔だった。素敵な人に出会えた。

15:45 バス着

 

〈感想〉

佐野裕子

雨天のため大変だったと思う。幸運にもあたった方がいろいろ詳しい方だったので助かった。一番苦労したのが、大野から飯塚に向かうときで、地図に載っていない道があって、道に迷ったことである。浜玉町は私の実家をさらに山手に進んでいったところにとてもよく似ている。小学校のとき、家の近くの溜池の歴史について調べたことを思い出した。そのときよりもいろいろ詳しく教えてくださったのが、良かったと思う。アポイントなしのわりにはなかなかよく調べることができたと自分では自負している。これからだんだんこのような小字とか住んでいるところの歴史を知る人が減るのだなあと考えると淋しいと思う。

 

水原菜穂子

調査前はうまくいくのか不安だった。今使われていない言葉は忘れ去られているからだしかもいきなり来訪してきた若い学生をあやしまないのだろうか。

しかし、実際、訪ねてみてこのような不安は消し飛んだ。こちらの質問に「そんなこと何に役立ちらすとね?」と言いながらも、たくさんのしこ名を教えてくださったからだ。現在使われていないのによく覚えているなあと感心する反面、ここの地域の暮らしは変化がないのではないかとも思った。もう1つ感心したことはおしえてくださったしこ名は発音だけで漢字をもたない(=意味なし)と思っていたら、「このしこ名は〜という場所の前だから○○ンマエというのだ」とその名の由来まで教えてくださったことだ。

佐賀の人は親切だ。忙しいだろうに、丁寧に教えてくださった。

今回の現地調査で感じたことは@人間のあたたかさに触れた。A地図の見方が少し困った。まさしく「歩いて考える歴史」となってしまった。B地名の由来を聞くと面白い。ちなみに私の住む「朝野」というところは、「朝町」と「野坂」の間にあるからだ。(本当かどうかはわからない)

生活の中にうもれている歴史に触れてみるのも楽しい。

 

水田春子

調査にかんしてはかなりうまくいったのではないかと思う。アポイントなしでいきなり訪ねていったが、快く話をしてくださった。でも、脇山一美さんに、事前にアポがとれていたら、もっと色々な話をたくさん聞けただろうと思うと少し残念だ。今回行った大野、飯塚は本当に田舎で地図にない、小さな坂道がたくさんあり、かなり困ったけれども、土地の方々に道を訪ねると親切に教えてくださったり、みかんをくれたり、雨宿りに店の中に入れてくださったり、温かさを感じた。「歩いて考えて」疲れはしたけれども、土地の方々の温かさに触れることができたのは、大きな収穫だと思う。



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