現地調査レポート/佐賀県/浜玉町/小原

 

1LA97149■ 武富陽平

1LA97153■ 田中慎介

 

栗原五十男さん 昭和3年生まれ

 

〈しこ名一覧〉         小字

浜玉町 シロバ(白場)      西の迫

    コボシノ(古星野)    大良

    ウランタニ      中河内

    ナガイシ(長石)     長石

    コバル(小原)      小原

    サンダタ(三反田)    三反田

    カショバル       野田

    カタタ         カタタ

    エノキシタ(榎下)    白水

    フジント    

 

 小雨のちらつく7月12日の朝、830に私たちを乗せたバスは出発した。私たちの行く先は佐賀県東松浦郡浜玉町である。この町は唐津市に隣接し、また福岡との県境もある、佐賀県東端に位置する。現在みかん栽培が盛んであるらしい。バスは西へ西へと進む。時が経つのと反比例するように周りに見える建物は減り、代わりに青々とした山が繁りたっているのが目につくようになった。雨は今のところ降ってないが、空は依然としてどんより曇っている。バスに揺られること約1時間、私たちのペアはほかの2組のペアとともに、目的地に近い、唐津湾虹の松原沿いのサービスエリア「おさかな村」に到着した。ここから私たちペアはほかの人達と別行動となった。

 今1000である。私たちが今日お話を聞かせていただく予定の浜玉町野田地区区長の栗原耕治氏のお宅には昼過ぎにお邪魔させていただくことになっている。服部先生のお話だと、ここから徒歩3040分くらいかかるらしい。時間はたっぷりあった。そこで私達ペアは打ち合わせをすることにした。何を話し、何を聞くのか、また、そのための基礎知識や予備知識をしっかり再確認し、一眠りして体力を蓄えた。

 それから1045ごろに他のペアと共にいよいよ各目的地に向かって出発した。皆途中まではほぼ同じ道筋であった。本当に蒸し暑い日であった。道沿いの水田は次第に減り、かわってビニールハウスが急激に多くなってきた。そのほとんどに、まだ収穫には早すぎる黄緑色をしたみかんの木が並んでいた。資料などでみかん栽培が盛んであることは知っていたが、直に見て改めてそのことを認識した。汗まみれになりながら、歩くこと20分、他の2組とは分かれ道の地点まで来た。私たちは野田へ、彼らは瀬戸や東山田の方へ行く。私たちは2人になって、その三叉路にある栗原酒店に入って一休みすることにした。ジュースを買って、店のおばさんと話をした。おばさんの話によると、私たちの目指す栗原耕治氏宅は、この部落の一番奥の家であるらしく、ここから徒歩で2030分ほどかかるらしい。そうしているうちに雨も降りだした。結構大粒の雨だ。1130ごろ私たちは右手に傘、左手に地図を持って再び重い腰を上げた。道に、私たち以外で歩くものはなく、車や自転車の人は追い越しざまに決まって私たちを一瞥する。何をやっているのだろうかとでも思ったのだろう。しかし、アポを取ってある以上役目は果たさなければなるまい。

ゆるい坂を登りきったあたりに、栗原耕治氏のお宅は在った。時刻はちょうど1200ごろである。私たちは名前と表札とをしっかりと照らし合わせて、確認した後、ちょうど昼食時であろうと思い、家の横の道に座って、自分たちも弁当を食べることにした。降っていた雨も今は上がっている。そして最終的な打合わせを念入りに行った。一人はトーク、一人は書記といった感じで一応の役割分担もした、そうしているうちに家の中から50歳ぐらいのご夫婦が出てこられて、私たちに話しかけてきた。「九州大学の方ですか」私たちは、それは絶対栗原耕治氏夫妻に違いないと思い、すぐさま立ち上がり、「そうです。どうも今日はよろしくお願いします。」と一礼をした。

 伺ってみると、もう昼食はお済みになられたらしく、さっき私たちが確認をしているのを家の中からご覧になり、出てこられたようだ。ともあれ、私たちはお宅におじゃました。応接間の畳に正座して自己紹介を行った。話によると今日は栗原耕治氏に来ていただくように頼まれた栗原五十男氏のお話を聞くことになっているそうだ。栗原耕治氏が自分よりももっと村のことを知る者を、ということで気を利かせてくださったようだ。私たちは栗原耕治氏と、ここまでの道のりなどを振り返ったりして、話をしながら栗原五十男氏の到着を待った。

 10分後、一台のバイクが家の前に止まり、初老の男性が入ってこられた。栗原五十男氏であろう。私たちは再び自己紹介をした。そして早速であるが、本題について話を始めた。

 栗原五十男氏は昭和3年生まれで、今年69歳になられる。現在もみかん農家を営んでおられるそうだ。まず浜玉町の祭祀についてお聞きしてみた。私たちがここに来るまでの道のりで途中荒神社(こうじんじゃ)当井神社を見かけた。そう大きくはないが、石段と鳥居があり、丘の上には木の矢倉があった。旧暦の12月15日、つまりいまの1月末あたりに毎年ここで祭りがあるそうだ。しめ縄を作ったり、一軒一軒回ってお払いをしたりするらしい。ちなみにこの荒神社は地名でいうと野田ではなく前田に位置する。また正月にも栗原五十男氏のすぐ裏にある野田明神を祀る神社で祭祀が行われる。以上2つは比較的小規模な祭りであるが、浜玉町では大きいもので年に3つの祭祀が行われるそうだ。まず春は4月13日に野田で諏訪神社から神主を呼んで行われる。これは野田のみでおこなわれる。さらに夏ちょうど土用の丑の日の辺り、7月20日ごろにも祭りがあり、地元の65歳以上の方々の作る老人会「春秋会」によって主催される。そして秋の唐津くんちの時期、旧暦10月、現在は大体113日前後に行われる牛まつり。これは昔みかん栽培よりも水田耕作の方が主だった頃に、豊作を祝うとともに、工作用の牛に対して感謝の意を表す祭祀であるという。現在は秋祭りといった感じで地元の住民たちの楽しみのひとつとなっている。

 浜玉町は現在、町域面積の4分の1を果樹園が占め、そこで生産されるみかんは県内でトップクラスの生産高を誇る。「平原(ひらばる)みかん」としてよく知られている。しかし、戦前はおもに水田耕作であり、みかん栽培が盛んになったのは、終戦後のことである。それまでにやはり水をめぐって地域ごとに争いがあったらしい。どの部落でも水の確保には頭を抱えていた。その中で野田も例外ではなかった。長石の辺りから注ぐ水は野田の水田を満たすが、そこでもしも部落で谷が違っていれば、それでもうその水をとってはいけない。許された水しか使えないようになっているのである。

野田は特にほかの部落よりも深刻に水不足に悩まされた。終戦後の急速なみかん栽培への移行もそれゆえであろう。対照的に水の豊富な東山田地区の方は未だに稲作が主体となっている。野田に残る水田は小規模なものばかりで、1町以上ある所はほんの23件であるという。浜玉町でも比較的低地に位置する横田の周辺は今でも結構、町規模の水田があるようだ。

しかし、みかん栽培に転向したからといって、水の需要がなくなるわけではない。浜玉町の場合、ビニールハウスを駆使したハウスみかん栽培であるから、一年中水がいるわけである。水田は多量の水を必要とするものの、せいぜい9月ぐらいまであれば、稲穂は実り、収穫もできる。何年か前の水不足の時は例えば、何時から何時までは誰それのみかん畑で水を出すといったふうに対処していたそうだ。さらに現在は道路が舗装されてしまっているので、雨がたくさん降っても水がしみこむことはができず、そのまま低い方へと流れ出てしまう。当然地下水の不足は免れない。昔のように、地面がしっかりと雨水を吸収してくれれば、これほどひどくなることはないのだが。一応昔は一年中水があったそうだ。

一方、今年のように降りすぎてもまた困るらしい。というのはせっかく植えた苗が流れていったりするし、またみかんの色や味に影響してくるそうだ。収穫後、出荷するまで保存しておくのにも、湿度があまり高すぎるとかえって腐りやすくなってしまうのである。年中順調に行き過ぎるとまた、どこでも大量に出荷することになるから、その分、市場の値段も下がってしまう。野田では他に、サルやイノシシの被害もうけているらしい。彼らは、ビニールハウスも突き破り、みかんを食いあさって逃げていく。猟銃の免許を持つものも少ないから、その被害にはあまり手が出ないようだ。また農家にとってやはり台風は驚異的な存在である。たった一晩で、一年がダメになってしまう。自然の力の前にはどうすることもできない。その辺が農家の厳しさ、苦しさでもあるように感じた。

 水路は農業が稲作からみかん栽培へと行こうするにつれて、廃れていった。逆にパイプ管が用いられるようになった。みかん栽培において、水を用いるには、葉や木にもしっかり与えなければならないので、水を組み上げ、散布するパイプ管を配管することが必要となってくるのである。現在残っている水路、水槽はごくわずからしい。教えていただいたものが、昔かつてあったのを含めると9ヶ所。井手をしこ名で呼ぶ慣行はあまりないらしい。私たちには「誰々の家の前」といった感じで教えていただいた。

列挙すると、まず野田温泉の前。ここは私たちがここに来る途中見たが、なかなか大きいもので現存する。他に川崎正広氏宅の前、川添永喜氏宅の前、太田忠雄氏宅の前、野田公民館前、そして栗原五十男氏のお宅の前にも残っているそうだ。かつてあったもので、原武雄氏宅前、栗原健一氏宅前。いずれも地図を参照してみると、野田川を利用して作ったものであることがはっきりとわかる。水槽は今でこそコンクリート製で便利になったが、昔は赤土ばかりでできていて側面が削られて底に沈んでしまい、深さが思うほどなかったということが頻繁にあったらしい。そこで底や側面に芝を植えたりして、水が下に染み込まないよう工夫していたようだ。現在、溜池として残る部落もある。今は町が管理してあるそうだ。

 現在浜玉町の水田の数は減りつつある。また、細かく区画してしまうと町に収める税金も単位毎で負担が大きくなるそうで、そのため今は比較的大規模な水田がわずかにあるそうだ。そこで、かつてあった、または今もある田圃(たんなか)の呼び名、しこ名を教えていただいた。西ノ迫にあるシロバ(白場)には5000tの溜池が残っている。大良にはコボシノ(古星野)、中河内にはウランタニ(裏ん谷か)と呼ばれる田がある。地名をそのままとったもので、ナガイシ(長石)、コバル(小原)、サンダタ(三反田)など。ナガイシには3000tの溜池がある。サンダタは比較的広い田圃だったようだ。野田の栗原五十男氏宅の前にはカタタと呼ばれる田があった。同じく野田には、カソバル(カショバル)と呼ばれ、昔火葬場があったからというユニークな由来のしこ名もあった。エノキシタ(榎下)やフジントも少し離れてはいるが、このあたりの住民に親しみ使われてきたしこ名である、ちなみに、しこ名は例えば上記のものは全て野田の人から見た呼び名であり、ほかの地区の人に必ずしも通じるとは限らない。ただ地元の人には通じれば良い。多くの田圃がみかん畑に変わってしまった今でも、しこ名はそのまま継承され使われているそうだ。また、山の名前などもあざ名でそのまま呼ばれる。

 最後に屋号に関して聞いてみたところ、本当にたくさんご存知でいらっしゃった。この近所には、特に栗原姓や川崎姓の方々が多く住んでおられるから、今でも屋号を使って、呼びあい、指し示し合っているそうだ。多くはその家の場所の単純な特徴から付けられたものであるが、中にはその由来が全くわからない屋号もある。かなりの数を教えていただいたが、いちいち書き記す。栗原広己氏宅はシンヤシキ(新屋敷)そこから下ったところにある栗原寿氏宅はシンヤシキシタ(新屋敷下)と呼ばれている。私たちのおじゃましている栗原耕治氏宅はヒガシ()と言われている。他に川崎トシオ氏宅はアマツツミ(天堤)、米倉収一氏宅はアマツツミノシタ(天堤の下)、同じように川崎八州博氏宅はイデンウエ(井手上)、栗原政次氏宅はイデンシタ(井手下)、カゲノタニノウエ(陰の谷上か)は米倉栄氏宅、カゲノタニノシタ(陰の谷下か)は川添永喜氏宅というように周囲の特徴に、他の家との位置関係によって付いたものも多い。原武雄氏宅はハラ()と呼ばれる。まるっきりそのままもわかりやすくていい。栗原五十男氏宅はハジデ(橋出)、それから私たちが途中立ち寄った、栗原酒店はヤリノモト(槍本)とよばれる。「ちょっと槍本まで買いに行ってくる」といったふうに使うそうだ。太田軍治氏宅、ナカノセト(中ノ瀬戸)、川崎誠氏宅、ウシグチ(牛口)、麻生正和氏宅のコウジヤ(麹屋)というのはいかにも屋号っぽい。他に井上清治氏宅はシトチダ、由来はわからない。栗原靖則氏宅はオオイシ(大石)、川崎保氏宅、ノダンマエ(野田前)、原芳宏氏宅はドウノツジ(堂辻)原涼子氏宅ヤマノウシロ(山後)。以上。

 調査が終わり、私たちは栗原五十男氏や、始終話を補助してくださった栗原耕治氏と語った。浜玉町でもやはり高齢化が進み、若者は出て行ったきり帰ってこない状態であるそうだ。農家にとって後継者がいないということはなんとも悲しいことであろう。たとえ種をただでくれてやったとしても、それを栽培していくための技術もなければ、やる気もない。農家という仕事はいくら努力したからといって、必ずそれに見合った成果があるとは限らない、個人的にもやはり、頑張った分の結果がでないとやる気は起こらない。経済的にも割に合わないことが多い。休みもなく毎日毎日頑張った挙句、一晩で一年がダメになる。そんな仕事にわざわざ大学を出てからつくということが馬鹿げているという考えが強い。それならば、しゃにむに大学に行かなくてもいいのではないか。少子化についても、元々は一人や二人の子供に莫大な金をつぎ込んでしまうから起こることで、そんなくだらない理由で子供を産まなくなること自体情けない。昔は十人や十五人兄弟とかいたのに、それでも食べていった。それなのに、今そんなに一人の子供にお金を使い込んで一体何になるだろうか、そんなことで子供が減っていいのだろうか。まるで若い私たちに訴えかけるように話してくださった。私たちはある高齢者の率直で正直な意見つぃてしっかりと捉え、かつ肝に銘じておくべきである。いやおうでも高齢化社会に突入する次代を担う私たちはもっと考察し、対応を考えるべきである。

 今日は調査の話題よりもはるかに貴重な話を聞くことができて有意義な時間を過ごすことができた。最初はどんな方とどうなることやらという不安があったが、人間的にも素晴らしい方々と出会え、話を聞くことができたのは私たちにとって本当に幸運であった。貴重な体験をさせてもらった。

 とうもろこしとせんべいをご馳走になった、帰りはしたまで車で送ってもらった。すがすがしい気分で栗原氏宅を出た。が、うっかり傘を忘れて車を引換してもらったのも、何故か愉快に思えた。400すぎにバスが来て乗り込み、私たちは浜玉町を後にした。



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