現地調査レポート/佐賀県/唐津市浜玉町/中原

 

1AG97119■  高尾英和

1AG97123■  高橋将晃

 

調査協力者

諸岡進   明治41年生まれ

諸岡正人  大正13年生まれ

諸岡義之  昭和11年生まれ

諸岡三江子 昭和15年生まれ

 

村の名前

しこ名一覧

 

中原(ナカバル)

スキサキ ・・・ 鋤先

ナカオダ ・・・ 中尾田

カミナカオダ ・・・ 上中尾田

タツノシタ ・・・ 辰の下

ナカバル ・・・ 中原

キタゾノ ・・・ 北園

マツヨシ ・・・ 松吉

ハルノタニ ・・・ 春ノ谷

カミグミ ・・・ 上組

ナカガワダニ、ナカンダニ ・・・ 中川谷

ハナミネ ・・・ 花峰

カラスマル ・・・ 狩集丸

コウジンドウ ・・・ コウジン堂

ヘイタロウザカ ・・・ 兵太郎坂

ネコイシ ・・・ 猫石

ワクドイシ ・・・ ワクド石

フナイシ ・・・ 舟石

イッポンマツ ・・・ 一本松

田畑

小字中原のうちに

スキサキ

ナカオダ

カミナカオダ

タツノシタ

ナカバル

キタゾノ

小字草場のうちに

ハナミネ

小字古瀬のうちに

カラスマル

中原

シュウジ

小字中原のうちに

マツヨシ

ハルノタニ

カミグミ

ナカガワダニ

小字草場のうちに

ハナミネ

コウジンドウ

ヘイタロウザカ

ほか

イッポンマツ(今はない)

ワクドイシ−山の上にある

フナイシ−ジョウゴダケにある

ネコイシ−座主にある

 *中原周辺ではシュウジのことをクミアイ(組合)という

中原

屋号

小字中原のうちに

井山清男さん宅

松隈研一さん宅

筒井健造さん宅

  →病院

麻生美茂さん宅

  →油屋

小字草場のうちに

田中良典さん宅

   →麹屋(こうじや)

小字座主のうちに

志田原宏敏さん宅

     →玉屋

石井商店

     →飴屋

小字戸房のうちに

進藤幹雄さん宅

    →曲屋(まげや)

平尾豊司さん宅

    →頭(かしら)

平尾忠義さん宅

    →下構(シモガマエ)

 

・昔はいろいろな石に名前をつけていたそうだが、道の邪魔になったり割れそうになったりしている石は割って取り除いたそうである。

・コウジンドウとは昔コウジン様をまつる堂があった場所の周辺を指す。

・川のところどころには飛び石があり(地図上の赤い丸)、それを利用して川を渡っていた。(部落間の行き来に利用)

・飛び石は現在中川谷に1つ残るだけで、あとは使用されなくなり、17号台風で川が増水し流された。

・昔は山の上からすべて田んぼであったが、終戦後急激にみかんの栽培が広がった。みかんの栽培法が伝えられたのは佐賀県でも一番古く、明治頃であった。現在みかん畑は3分の1まで減り、ほかの作物畑に変わっている。

 

〈用水について〉

 深い井戸がいくつもあり、川からも取水して利用している。昔、井戸のなかった家庭では川まで水を汲みに行っていたらしい。現在は山の上に300トンの水を貯めることのできる水槽から放流された水も利用している。用水源である小川と今坂川の流域に面し、川から取水しているどの村とも水をめぐる争いはなかった。「この辺りが水不足になった時は日本全体が水不足である」というくらい水は昔から豊富だったらしい。田んぼがなくなって、水の出が悪くなったらしく、昔の方が水は多かったとのことである。94年の大旱魃のときも深く井戸を掘ると水が出たので、別に困りはしなかったらしい。

 

〈村の耕地について〉

 昔はほとんどが田んぼであった。米のとれる、とれないの差は田んぼにはほとんどなく、強いて言うなら、ナカオダがよくとれ、スキサキはあまりとれなかった。昔は麦も作っていた。現在は大半がみかん畑である。また生草や牛の敷草を切る場所として、中原、古瀬、草場の3つの村で300町の共有原野を持っていた。現在それが三構森林組合になった。この地では焼き畑は行っておらず、野焼きは行っていた。

 

〈村の姿の変わり方〉

・道が整備されて発展した。

・昔は牛がどの家にもいたが、牛→耕運機→自動車と動力が変わっていった。

 

〈今後の日本農業についての考え〉

 若者がいないところはさびれていくであろうということであった。若者がいる所は農休日や花作りなど若者を惹きつける何かをしているが、そういった努力は必要であると後継者問題を取り上げられた。また、ひとつの集落でひとつの作物を作るよりも、その地区や個人にあった農業を行っていくことも大切だということである。果樹は実りが悪いと一年を棒に振るが、野菜や花はそういったことが起こらないということからであった。また中国の農業に対する脅威があるという考えを持っておられた。



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