現地調査レポート/佐賀県/唐津市浜玉町/草場
1AG97130■ 竹原あゆみ
1AG97132■ 田中千賀子
一日の行動記録
9:00頃 バスで学校出発
10:30頃 草場地区着。バス下車
作業中の夫婦に聞き取りをお願いするが、「もっと年をとった人に聞いたらいい」と言われた。
別の家を訪ねる。おばあさんからお話しを聞く。
12:00頃 事前に連絡を入れておいた脇山さんのお宅を訪問。進藤さんという方を呼んで頂いており、二人からお話しを聞く。
15:45頃 バスに乗り込む
17:00頃 学校着。解散
聞き取りをしたおじいさん、おばあさんの名前と生まれた年
吉原朝子さん : 明治43年
進藤睦雄さん : 昭和6年生
脇山淳(すなお)さん :昭和13年生
しこ名一覧
村
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小字
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しこ名(太字は屋号)
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草場
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後ノ谷
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カイゴミ(貝込)
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大谷
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フカサコ(深坂)、ホトケンタニ(仏谷)
ヒラケダ(平ヶ田)、キシダカ(岸高)
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小山田
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桂
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クアンサコ(桑坂)、タチベ(立部)
ビタイテンサマ、ジョウゴダケ(城ヶ岳)
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金ヶ坂
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ヨシノサコ(吉野坂)
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草場
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エンジンボヤマ、クルマヤ(車屋)
ミヤンモト・テンジンヤマ[ともに同じ場所を指す]、ニタンカミサマ、コウジヤ、ゲンソバ
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草場
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隈本
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オオツジ(大辻)
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通木
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コバサコ(古坂)、イワブネ(岩舟)、ニジコロシ(西殺)
トウロキジモ(通木下)、タカトリ、カゴタテ、ミュウトイシ、ワクドイシ、シンナシ(新梨)
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中道
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灰久保
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羽子板
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花峰
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ナカンツボ
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それぞれのしこ名には、それぞれ由来があり、父親が酒を飲んだ時などに言って聞かせ
ていたが、ほとんど忘れてしまったそうだ。その中で、覚えていたものだけを聞かせてもらった。
シンナシ 新梨 ・・・ 昔、鳥がその場所に梨の種を落とした。それはその場所に梨
が生えるとよく育つことを表していると言われた。実際に梨の木は存在したそうで大人2人でも幹に腕が回るかどうかというほどの大木だったそうだ。しかし現在その大木はなくなっているそうだ。
ニタンカミサマ ・・・ ニタの神は牛の怪我を治す神様で、遠いところからも人々が訪れ、参詣したそうだ。
また、ワクドイシ、ミュウトイシについては本当にそう呼ばれる医師が存在するそうだ。
橋などのしこ名は特になく、山や谷のしこ名(ホトケンタニ仏谷・ジョウゴダケ城ヶ岳)は同時にその場所一帯のしこ名となっている。
村の水利
水は井戸水と出水からといっているので、水不足になることはない。また出水はその場所によって水の味が異なり、特にクワンサコの水は名水で、村の中では有名だそうだ。
村の耕地
今は一年を通して果物のないときはない。おもにミカンの生産をしており、ハウスミカンは5〜9月、路地ミカンは9〜3月また11月収穫のキウイ、2〜6月のモモ、その他スイカ、ブドウ、メロン、イチゴ、カキスモモ、ヤマモモ、ビワ、りんごとほとんどのフルーツの栽培をしている。その他トマトなどの高冷地野菜やカーネーション、トルコキキョウ、バラなどの栽培も行っている。
しかし以前は水田が広がっていたそうだ。一番良く米のとれたのは草場で反当7〜8俵だった。大谷や小山田・金ヶ坂・通木あたりでは4俵ほどだった。また桑も育てていた。
それが昭和45年の水田転換で、水田から主にみかん栽培に移行することになった。昭和40年代は、みかんの需要が多かったがほかの果物や輸入物におされて、近年は伸び悩んでいるそうだ。
昔は牛で草を鋤き込み肥料にしていた。化学肥料にしてからその収穫量は大きく変化したそうだ。
草場と中原と古瀬で三構森林組合をつくり、共有で380丁部の森林を明治もしくはそれ以前から管理している。場所は鳥巣の中にある。杉やヒノキを生やしているそうだ。
村のこれから
農家は次第に減少している。吉原さんの家でも廃園にした果樹園もいくつかあった。また吉原さんのお子さんは大阪にいるそうで、村全体としても若者が少なく、高齢化が進んでいる。若者はどんどん街へでていってしまうそうだ。これからも農家数は減少をたどるだろうということだった。
ちなみに、専業農家と兼業農家の数は半分半分ぐらいだということだ。現在フルーツランド構想村おこしとして平成10年を目差して進められているそうだ。観光的に「一年中いつでも果物が食べられる村」として売り出そうという予定だ。今年の10月25日にもイベントの予定がすでにあり、吉本興業のタレントでもよぼうかという話もある。
これから小さい集団では太い(=大きい)事業はできないということで、農協合併や部落合併必要となってきている。しかし、先祖代々工作していた土地は自分たちで管理すると言って合併や共合事業に反対する人たちもいて、いろいろな問題があるようだった。
最後に
しこ名の由来など親から聞いた話も忘れていくし、自分自身も地名について子供に伝えていっていない。これからこういったしこ名は失われていってしまうのだろうと進藤さんは話されていた。村では草場天神社で年4回祭りがあり、また村では富田才治様といって明和8年(1771年)の松原一揆の計画者を大切に祭っているようだった。しかし、こういった祭りもどんどん失われていくだろう。
こういった状況はやはりなにかさびしいものがある。
また、後継者に悩む農村の問題についても危機的なものを感じ、農学部として、これから日本の農業について考えさせられた。