現地調査レポート/佐賀県/唐津市浜玉町/小山田
1LA97126■ 佐藤史織
1LA97159■ 玉川雅裕美
聞き取りした人 楢崎テルヨさん 大正2年生まれ
隈本勝さん 昭和25年生まれ
隈本真由美さん 昭和12年生まれ
小山田
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畑
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小字峰門のうちに
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ヤマンタ
イタヤ(板ヤ)
コヤマタ(小山田)
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元田んぼ
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小字峰門のうちに
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イタヤンマエ(板ヤン前)
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川
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小字峰門のうちに
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ヤマンタガワ
コヤマタガワ(小山田川)
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古道
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小字峰門のうちに
小字峰門・千原のうちに
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コヤマタゴエ(小山田越)
タケンシタンミチ(竹下道)
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山
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小字峰門のうちに
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カリマタヤマ(刈又山)
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谷
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小字峰門のうちに
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スゲンタニ(末下谷)
ウシロンタニ(後谷)
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大字境
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小字峰門のうちに
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オオツジ(大辻)
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屋号
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小字峰門のうちに
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イタヤ(板ヤ)
コヤマタ(小山田)
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浜崎の四つ角でバスを降りて、昭和バスに乗り込み五反田というバス停で降りた。ここから、小川という川沿いの道をずっと南に下り、小山田にたどり着いた。あとで聞いた話によると、私たちが来た道が竹下道(たけんしたんみち)と呼ばれる道であることがわかった。
まず、峰門橋を渡ってすぐの楢崎博人さん、楢崎十四郎さんの家からあたることにした。その2軒の家の間には大福神(だいふくじん)さまと本尊薬師如来がまつってあった。そこでその家の人に話を聞きたかったが、残念ながら留守で話を聞くことが出来なかった。
次にあたった隈本道夫さん宅では調査ができなかった。その隣の隈本秀和さんの家を訪ねると、道夫さんは昔のことに詳しいらしいが、体調が悪いとのことだった。そこで隈本秀和さん宅で紹介してもらった青木実さんと隈本一さん宅を訪ねることにした。
まず、青木さん宅を訪ねると、あのおばあさんが詳しいよと紹介された。そのおばあさんは楢崎テルヨさんといって話を聞いた一人目の人物である。おばあさんに話を聞いたのは、青木さん宅の前の畑でであった。
はじめにその畑がヤマンタであることを聞いた。ヤマンタは昔はずっと田であったが、みかん畑に変わってしまった部分も多いという。そしてヤマンタのすぐ隣に小さな川があったが、その川をヤマンタ川と呼び、ヤマンタにはその水を利用するそうだ。そしてヤマンタ川は130年以上も前から存在し、旱魃の心配は全くなく、旱魃の影響はゼロだったそうだ。また、畑の収穫としてヤマンタはどうなのかと聞くと、ヤマンタよりも、峰門橋の西の方の畑がよくとれるということだった。
さらに、山林についてはここ一帯では焼畑などは行われておらず、ヤマンタの向かいの山は本来大きな山だったそうだが、今は大きくけずりとられているのが私たちの目にも映った。そしてヤマンタのすぐ上の山には大福神様の墓があるということだった。その山にも昔は大きな木があったが、今は切られてしまったそうだ。その大福神さまは資料であったように、昔修行して病気で亡くなった山伏である。資料にも楢崎氏の祖が看病したとあり大福神さまを祭ってあったのを思い出した。大福神さまは主に、峰門の人々が祭り、特別な行事はないが、秋の彼岸に弁当などをもって、墓のところへ集まるそうだ。
また、ここ一体では春と秋に「大めぐり」なるものがあり、それは一体何かというと七山の方からずっと寺などを5日間かけてめぐるものだということだった。その際、薬師如来、大福神さま、千原の方などもめぐるそうだ。
次に聞いたしこ名にイタヤ(板ヤ)があるが、これは楢崎征男さん宅の屋号であると同時に、征男さん所有の畑を指すという。畑といえば、ヤマンタとこの征男さんの畑2つぐらいしかなく、今はどこを見渡してもみかん畑だった。もともとイタヤには、征男さん宅以外の家もあったそうだ。しかし、今はなくなってイタヤといえば、征男さん宅を指すという。そして次に、屋号と畑の両方を指すコヤマタ(小山田)というしこ名を聞いた。コヤマタは谷の一番奥入った隈本一さん、楢崎亮三さん宅の2軒とその周辺の畑のことを言うそうだ。コヤマタは小字だと思っていたけれど、正確には2軒の家と畑にあたるものと知って驚いた。実はこのおばあさんは亮三さん宅の人だった。
また、道についても聞いてみた。となりの村の草場へ通じる道をコヤマタゴエ(小山田越)と呼んだそうだ。昔はそのコヤマタゴエを利用して、よく草場へ行っていたのだろう。学校道としては、昔はタケンシタンミチ(竹下道)[図中ピンク]という川沿いの道を通っていたそうだが、私たちも通ってきてわかったとおり、人通りが少なく危ないので、今は村の中を遠回りしていくそうだ。[図中黄色]昔は子供が多かったそうだが、今は少なくなって、学校まで親が送ったり、学校から先生が送ってくれたりするという。
そして物流について聞くと、昔はリアカーなどでみかん、かき、たきもの(まき)などの農産物を持って行って、玉島で売ったそうだ。その際通るルートは川沿いのタケンシタミチだったという。そしてその帰りに砂糖、だし、魚などの買い物をして帰ったと話された。なお、しょうゆ、みそ、小麦粉(そうめん、うどん)などは自宅で作っていたそうだ。
最後に村の変化について聞いた。昔はほとんど田んぼだったものが、今ではみかん畑に変わっていて、人の入れ替わりもあったそうだ。そしてヤマンタのあった青木さん宅の周辺は40年前ぐらいまでは草ばかりだったという。また昔は玉島で素人芝居があっていたが、今はテレビなどの娯楽に取って代わられているのだろうとのことだった。村のこれからについては、さあと首をかしげていたテルヨさんだった。おばあさんに話を聞いていたらお昼になったので、1時を待って紹介されたもう一軒の家、隈本一さんを訪ねることにした。
隈本一さん宅を訪問すると、あいにく紹介された一さんは不在だったが、息子の勝さんと奥さんに話を聞くことができた。
まず、しこ名として、コヤマタ、ヤマンタ、イタヤがあると聞いた。コヤマタとはやはり、隈本一さん宅と楢崎亮三さん宅の2軒を指すそうだ。隈本さんによると、コヤマタの指す2軒の家の小字は、峰門で、コヤマタはあまり使われなくなってきているとのことだった。そしてイタヤの前にもとは田んぼがあったそうだが、その田んぼをイタヤん前と呼んだという。イタヤは屋号ではないがイタヤといえば今は楢崎征男さん宅を指すことになり、屋号的な意味を持つのだそうだ。また隈本さん宅の横を流れる川をコヤマタ川と呼んでいるという。
谷はスゲンタニ(末下谷)、ウシロンタニ(後谷)と呼ぶ谷があって、カリマタヤマ(刈又山)という山もあるそうだ。そしてこの山には、オオツジ(大辻)という平原との大字境があるということである。
道の名前として、小川沿いの道は竹山があったことからタケンシタンミチ(竹下道) と呼ばれ、となりの村の草場に行く道路はウシロンタニドウロ(後谷道路)と呼ばれている。この道路は比較的最近につながったものらしい。
次に土地の利用について聞くと、この辺りは今はみかん畑ばかりだが、昔はほとんど水田だったそうだ。そしてその水田の中には、麦の裏作としていたところも少しあったとのことである。
山林については、焼畑は全くされていないそうだ。なぜなら、焼畑をするようなやせた土地ではないからで、それだからこそ、みかんのような果樹栽培に適するということだ。共有林は昔からなかったという。戦時中は山林を切って養蚕業を営んでいたそうで、山にはカシ、シイなどの木があったそうだ。
シュウジ(小路)について聞いたところ、シュウジというものはないが、峰門、千原にはそれにあたると思われるコウジュという、班のようなものがあるとのことだった。
物流については、昔は6尺棒のわらかごてんびん、リアカーを用いて物を運んでいた。東唐津までリアカーで小売しに行っていたそうで、福岡からの買人に間に合わせるため、朝3、4時には家を出ていたということだ。その際通る道は、タケンシタンミチだったそうだ。その後は、みかんなどを玉島神社横にあった集果場に運ぶようになり、今ではトラックで農協に運ぶということである。そして唐津での小売の帰りに、魚や酒などの買い物をしていたそうである。また通学路は、おばあさんの話と同様、昔はタケンシタンミチを利用していたが、現在は危険ということで、村の中を通って通学しているという。
農業については、昭和30年ごろからみかんが作られるようになり、田はほとんどなくなったとのことだった。みかんを持ってきた人は草場に住む井山清男さんの先祖で、山を越えて小山田に伝わったそうだ。みかんの栽培については、畑を作って、ハウスをかけるのが一番良いそうだ。肥料としては、20年ぐらい前までは化学肥料と、配合肥料少しを使っていたそうだ。ミカン作り自体古くないので、はじめから化学肥料が使われたらしいが、窒素過多になったので、今では油かすなどの有機肥料を使っているとのことだった。みかんは玉島のものが量的に多く取れるが、質は悪いそうだ。みかん作りは現在、厳しい状況にある。10年ほど前から効率の悪い畑をはらう減反により、荒山が増えていて、米よりもうけるみかんのはずが、みかんの値段も下がっているとのことだったからである。
水利については、コヤマタ(隈本さん宅一帯)は、コヤマタ川の水を利用し、飲み水には井戸水を使用しているということだった。現在は、平原側から水を落差式で水槽に落としている。そして畑総事業による畑管(管を通しているためこう呼ぶ)で水利を行っている。この畑総事業は、国営の事業で、国が7割、地元が3割負担しているそうだが、この3割の負担でも、農家が負担金を払えなくなっていて、見直しが必要となっていると話されていた。
祭祀については、玉島神社を祭っているそうで、玉島神社の神主さんは隈本真由美さんという方だそうだ。多摩島神社の主な行事には、春祭り、秋の大祭、放生会をする祗園祭があるとのことだった。玉島川をはさんで北は大村神社、南は玉島神社を祭っている。綱引きなども玉島川をはさんで南北に分かれると聞き、川には昔から何か重要な意味があったのではないかと思った。
資料にもあったように、隈本家は阿蘇大宮司阿蘇惟直の郎惟成の子孫で、隈本一さん宅は、昔から神道であるそうだ。またこの家には大昔からおいなりさんがおられ、その枝割れの神様を家の前の朝日森神社に祭っていらっしゃった。そして毎月1日と15日に、酒、米、塩などを供えていて、これからも祭っていくつもりだとのことだった。
村のこれからについて聞いてみたところ、農業の面ではやはりみかんが中心となるとのことである。みかんは品質が勝負となるそうだ。これから農家はひと握りしかいなくなるほど減少するだろうとのことだった。しかしこの辺りにはまだ後継者もいることはいるそうだ。村の姿は、西九州の道路が通ることによって変化していき、土地を買いに来る人が増え、少しずつ家も増加してくるとの見解を示されていた。住人としては、土地が荒れてゆくよりも、買ってもらったり、分譲してもらったりすることを望んでいるとのことだった。
隈本一さん宅でうかがった祗園祭の放生会なるものが十分に理解できなかったが、先ほど訪ねた(青木さんと隈本一さんを紹介してくれた)隈本秀和さん宅の真由美さんが玉島神社の神主さんであることを知ったので、もう一度そのお宅を訪ねることにした。
真由美さん宅でもしこ名として、イタヤが出てきた。イタヤという名前の由来は、やはり板の商売をしていたからではないかということだった。また、平原にはデンキヤ、アメヤ、トウフヤなど、その人の家を〜さん宅と言わず、〜ヤと言っていたのにはその当時子供だった真由美さんも最初は戸惑われたそうだ。そして、ヤマンタのことも出てきた。真由美さんによると、イタヤは屋号であり、ヤマンタはその地域の名前であるそうだ。
玉島神社、祗園祭の放生会について尋ねると、玉島神社のしおりをもらった。放生会の意味と由来を簡単に説明してもらった。その説明はこうだった。第14代天皇、仲哀天皇の皇后が、天皇の没後、朝鮮出兵のため男の姿をして代わりに戦った。そしてその戦いの際、鮎によって戦いの勝敗のゆくえを占った。鮎が釣れれば、戦いに勝つと言われていた。この玉島神社近くの小川で鮎がたくさん釣れ、そのようなことは珍しいとして、玉島の里を「メヅラ」の里と呼び、その鮎を普段食べている私たちが、年に一度ではあるが鮎を供養することを放生会というとのことだった。この放生会のある祗園祭が玉島神社にしかないものだそうだ。玉島神社は元は聖門社(しょうもんしゃ)というもので、人々の休む場所として利用されていた。そのうち信仰が厚くなり、今から1800年前、玉島神社として祀られて、1800年祭も催されたと話された。資料では昔は聖母大明神と称し、旧村社であって欽明天皇の時代に社が建てられたとされる点で食い違いがあるように思える。最後に真由美さんの息子さんたちの例を通して、人間性についてのありがたい話を聞くことができた。
こうしているうちに、3時を過ぎたのでそろそろ浜崎に戻ろうと県道を歩いた。バスをつかまえることができず、浜崎までずっと歩き続けた。学校に到着したのは、夕方5時半ぐらいだった。
最後に感想を述べると、昔の田んぼが残っておらず、比較的近年に始められたみかん畑ばかりだったのでしこ名を集めるのは困難だった。村の人々と話をして貴重な人生経験になると同時に、昔の文化そして昔と今とのつながりを学び取ることができたよかったと思っている。