現地調査レポート/佐賀県/唐津市浜玉町/金草
1LT97038■ 音成 久美子
1LT97035■ 緒方 由美子
私たちの担当地区であった金草は、渕上地区の中の1地区であり、区長さんがいらっしゃらなかったため、事前のアポイントをとることができなかった。
調査日当日、AM9:30頃浜玉中学校近くでバスを降り、まずは渕上地区の方へ歩いた。そこから車が通れるほどの道を見つけ、地図を頼りに山道を登った。途中、雨風にふかれながらふらふら歩いていたら住宅が10軒ほど道路沿いにある金草についた。AM10:15頃だったと思う。
まず、一番近くにあった家をお訪ねしてみたが留守のようだったので、もう少し先の家を訪ねようとしたとき、左側の家の方からバイクのおじさんが出てきて「九大生か?」と声をかけてくださった。おじさんは前日、渕上の区長さんから九大生が来るということを聞いてらっしゃったようで、私たちが渕上地区と間違えて金草まで登ってきたと思われたらしい。私たちが事情を説明すると「金草には昔のことを知るお年寄りの方はほとんどいないけれど、うちおやじでよかったら・・・」ということだったのでお宅にうかがわせていただいた。そして、AM10:30過ぎからAM11:45ころまでお話しを伺うことになった。そののち私たちは山を降り、浜玉町の中をうろうろしながら、バスが来るまで待った。
ではまず、しこ名をまとめてみる。
村の名前
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小字
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しこ名
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金草
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田畑
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松平
太肥
内田
ダイラ
ボシガワ
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スゲンタニ、ナカンヤマ、シンナシホウ
ヒノフチ
カワバタ(川端)、キシダカ、サガリ
トオゲ
タノカシラ(村の中で一番上にあった田んぼであるから)
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山
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松平
狐石
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ムコウヤマ
カゲンヤマ
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谷口
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岩
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カサネイシ、アカイシ
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○屋号
私たちがおじゃました内山伊代助さん宅は「ホンヤ」と呼ばれていて道路をはさんだ向かい側の内山清樹宅は「シンヤ」と呼ばれている。これは内山伊代助さん宅の方が本家であることから来ているらしい。
○水利
この辺りは昔から井戸水であり、各家に井戸があるらしい、3年前の干ばつもほとんど影響はうけなかったということだ。隣村の谷口も渕上も井戸水であり、昔から水争いなどはほとんどなかったようだ。だが、まだ金草に田んぼがあった頃干ばつがあったときは、村の中でちょっとした水争いがあったようだ。皆が自分の田んぼに水を引きたいため、他人の家の井戸水から水をひこうとしたりして争いがあったようだ。
今度、4000万円をかけて上流の方の川から水を引く計画があるらしい。この水は生活用水というよりもほとんどが防火用水となるらしい。
○焼き畑、キノイ
内山さんの話によると、焼き畑やキノイが昔あったということは聞いたことがないということだった。
○シュウジ
シュウジについても聞いたことがないということだった。
○公有地
谷口のカサネイシの裏の方に公有地が昔はあったらしいが、終戦をむかえ、マッカーサーが公有地を禁止したため、今ではもうのこっていないということだった
○マキについて
ほとんどが雑木(シイ、マテなど)を利用していたようだ。
○耕地
金草の昔の田んぼは90%が乾田で麦やナタネなどの裏作が行われていたらしい。すべての田んぼは棚田でせまく、肥料は大豆かすや人糞尿を用いていたようだ。金を払って人糞尿を買いに行くこともあったようだ。今の内山清樹さん宅のあたりが良田だったそうだ。
○道
「黒田道」と呼ばれた道があったようだ。この道は、朝鮮出兵の城をつくるとき殿様たちが通った道だったらしい。また、隣の谷口村へ行く山越えの道が今でも残っているそうだ。内山さんは五反田にあった玉島高等小学校へ渕上を通って4,5kmも歩いていたということでした。
○祭祀
この近くには金草神社という神社が地図にのっていたので尋ねてみると金草神社とは呼んでいないみたいで「明神様」という答えが返ってきた。この明神様は金草地区の家10軒くらいで祭っているらしく、午頭大明神(午頭天皇)が祀られているらしい。
また、この地区の祭りについても尋ねてみた。
・モモテマツリ(百百手) 3月20日、10月20日に行われ、明神様にかかわる祭り。各家を回ってご馳走を食べる。
・ツクリアガリ 田植えあとに行う喜びの祭り。
・ツヤ(通夜) 10月14日に行うのが原則であるが、日がかわることもある。これも明神様にかかわる祭り。おもちをついて渕上の人も含め酒を飲んで騒ぐ。その名の通り夜通しである。
○村のこれから
金草では昭和30年代まで棚田を浸かった農業が行われていたらしい。これらは何百年も続いた水田であったということだ。しかし、昭和42〜43年にかけてほとんどすべてがみかん作りにかわった。でもみかんの生産が過剰になりすぎて、値段が下がりミカン作りにかかる費用とひきあわなくなり、みんなみかん作りをやめてしまった。それからは、それぞれがいろいろな商売をしたり、仕事に出るようになり、みかん作りはハウスで何軒かが作っているだけになってしまったようだ。渕上と合わせて80軒くらい家があるが、農業をやっているのは10軒くらいで金草は3軒ということだった。自宅で絨毯のクリーニング屋をしたり、習字教室をしたりしている家もあるそうだ。若い人たちが少ない上、百姓は金がないということで後継者がいないということだ。内山さんは、はっきりと口で「農業を続けていってほしい」などというようなことはおっしゃらなかったけれど、どこか寂しそうであった。ただ「日本の農業は後継者がいないからな」ということをおっしゃった。
今回、私たちにお話しをしてくださった方
内山伊代助さん 大正10年生まれ 満75歳
〈感想〉
初め、金草まで山を登っていたときは、すごくきつく、運が悪いなと思っていたが、偶然会ったおじさんに内山伊代助さんを紹介していただくことができた。また、後でわかったことだが、内山さんは渕上地区の会計を経験されており、区長さんの方から、私たちが来たらお話しをしてくださるよう頼まれていたらしく、実はすごく運が良かったのではないかと思った。私たちが訪ねたのは日曜日だったけれど、とても静かで子供の声や姿が見られず、おっしゃられていたように、過疎がすすんでいるのかなと思った。
新しくて大きな家もあったけれど、この辺は昔、田んぼだったところを整備して宅地にかえたということだった。家の裏などをのぞいてみると、ところどころみかんの木らしきものが斜面に残っていたり、みかんを運ぶモノレールのレールが残っていたりした。金草の現状と何十年か前までのみかん作りで活気溢れていた様子がかさなって見えたような気がした。