現地調査レポート/佐賀県/唐津市浜玉町/渕上

 

1LT97160■  森田寿子

1LT97167■  山中麻理

 

7月6日午前10時ころ、この地区の区長さんである佐々木信綱さんのお宅におじゃましてお話しをうかがった。大変協力してくださって、圃場整備の参考資料プリントをいただいたので、その概要を書いておく。

東松浦群浜玉町は、佐賀県の北西部に位置し、総面積5270ha,水田387ha,1560ha,うち1251ha,2009ha,総世帯数2254戸、うち農家戸数1069所、他1185戸で人口10400余人を擁している。

この地域の産業は農業が中心で、農家1戸当たりの平均水田耕作面積は36a程度で、県平均の95aよりかなり少なく、しかも米麦は時給型農業経営の性格が強く、生産性も極めて、低い現状である。

 なお、本地域は、明治時代より「みかん」の栽培が盛んで、現在1251haの樹園地があり、山腹斜面のほとんどが、みかん園になっている。数年来のみかん景気に伴い、従来の生産性が低い水田にまで、みかんの作付が点在するに及んだ。

圃場整備後の土地利用の様子をわかりやすく色分けしたので、ここに参照しておくことにする。

 私たちが訪ねたここ浜玉町は想像していたより、ずっと発展した町で、海と山に囲まれた空気のおいしい緑の町だった。昔風の水田が一面に広がった風景を私たちは予想していたのだが、以外にも佐賀の名産であるみかんのビニールハウスが松の太陽の光に照らされてキラキラ輝いていたのが印象的であった。私たちは2人とも偶然にも佐賀県出身なのだが、駅の近くの市内に住んでおり、近代都市化の波にさらわれているので、森林伐採のあまり進んでいないこの町を見て、なんだかほっとした気分になった。また、市内に住んでいる私たちの地域よりもずっと下水処理設備が充実していることと、町の中心部を流れる玉島川の水の効率的な排水構造には、とてもおどろいてしまった。

 

・田のしこ名だが、この地域は、ほとんどハウスみかんになっていて、田の数が少なかった上に、この地域の長老的存在の方に尋ねても、答えをいただくことができなかった。その方も田を呼ぶときは、小字を使って呼んでいらっしゃった。しかし、いくらかの地域で通称らしきものがあったので、それを書いておく。

 

 

 

 

小字

通称

由来・メモ・その他

大久保

平石周辺

「クランウエ」

・「倉の上」という漢字をあてる

・昔、その一帯は城があり、そのため「クランウエ」と呼ばれていた。その城は今は、墓地になっており、城の跡は残っていない。

湯穴

黒田付近の玉島川流域

「ナルタキ」

・「鳴滝」という漢字をあてる。

・昔、滝があったらしい。

 

大久保付近

「シャーポージ」

・「西方寺」の漢字をあてる「サイホウジ」の読みがなまって「シャーポージ」になった。

・「西方寺」は残っておらず、今はみかん畑になっている。

・溜池もあったらしい。

魚見台付近

「イワブネ」

・「岩舟」の漢字を当てはめる。

・少し高くて、見晴らしのいいところに台のようなものがあって、そこから海の様子を見て、魚が奥いる地点などを上から指示する。手方信号を使い、通信していた。岩がたくさんあって、船のような岩もあったことから、この名前がついたらしい。

下新田

「サヤンモト」

・「道祖ん本」という漢字をあてる。

・そこには「サヤンカミサマ」を祭ってあった。

「サヤンカミサマ」は安全の神様

下新田

「マエダ」

・「前田」の漢字を当てる。

・マニュアルの例を提示したところ、「マエダ」は使っていると教えてくださった。その持ち主の家の前にある田なので「マエダ」らしい。

この地域では、「しこ名」は全く存在しなかった。というより、長老の方でも知らないくらい、昔の存在であった。その長老の方のおじいさんくらいにさかのぼらないと、そういう田の名称は使用されていなかったそうだ。この地では長老の方も小字を使って呼んでいらっしゃることを強調しておきたい。

 

○神社について

玉島川沿いに、「渕上神社」という神社がある。この神社は、もともとそこに何らかの神様をまつってあるのではなく、その周辺の山の中にある神社のいくつかを、明治42710日に県知事の認可を得て、合併して出来た神社であった。合併された神社は9つある。そのうち一つは名前の部分が削られていて分からなかった。残りの8つは「若宮神社」「金草神社」「屋布佐神社」「事代主神社」「平尾神社」「松尾神社」「道祖神社」「山王神社」という名称である。神社自体は残っていなかった。場所も特定できなかった。合併された8つの神社の中に「金草神社」があるが、これは現存する「金草神社」とは別の神社であることを注意しておきたい。

 

・小耳に挟んだのだが、浜玉町というのはもともと玉島村と浜崎町とが合併したものであり、約40年前までは、玉島川を境に北側が玉島村、南側が浜崎町であったが、その後、浜崎玉島町と呼ばれるようになったという。そのことを聞いて、事前に集めておいた資料に、浜崎中学校、玉島小学校と記してあることに疑問を抱いていた私たちはなるほどと思った。現在のように浜玉町と呼ばれるようになったのは、今から約30年前からであるらしい。

 

・あざ名を上手く調べることが出来なかったので、いろいろ他の話を聞いて、その中から取り出そうとした中で、現在の組合のことを聞いた。今回の調査目的にかなうかどうか分からないが、組合の名前も地域を示す場合もあるので、組合の場所と名前を明記しておく。

組合の名前:奥組・谷の浦・上組・中組・下組・宮本・金草

組合の場所:地図に明記

金草が少しあいまいであるが、7つの組合が存在する。

渕上は昔はまだ海であり、その頃の金草村が、海岸線の後退とともに住宅・耕地を拡大して言ったのが、現在の渕上となっている。

 

・渕上の中央を貫いている金草側沿いにある道路が、現在最も利用されている道路であるが、その道は、江戸時代に参勤交代に使われていた道であるが、現在はほとんど利用されておらず、藪の中に隠れて道がなくなっていた部分もあった。

実際通ってみたが、とても細く、急な坂道が延々と続いており、江戸時代に実際通っていたときの苦労が思いやられた。

 

〈本日の行動〉

am.10:00

 

 

 

pm.12:00

 

pm.1:10

 

 

 

 

 

 

 

pm.3:15

pm.4:20

案内役である佐々木信綱さん宅に到着

3人のかわいいお孫さんたちに温かく迎えられる。

長老を含む3人の方に浜玉町の歴史などについて詳しく聞く。のち、長老の方の戦争秘話や人生論にまで話が発展する。

佐々木さん宅でなんと豪華なお寿司をいただく。あまりのおいしさに2人とも本来の趣旨を忘れそうになる。

佐々木さんの車で町内の主要な場所を見学させていただく。

@     町内が見張らせる山頂:ビニールハウスの多さにビックリ

A     魚見台:緑がおいしかった

B     西方寺:跡がほとんど残っていなかったが、想像は出来た。途中、江戸時代参勤交代の道に利用されていたという長くて急な坂道を通る。

C     みかんのビニールハウス:甘いみかんを10個ずつこっそりくださった。

佐々木さん宅で浜玉町の歴史の話の続きをじっくり聞く。

集合場所まで車で送っていただく。最後の最後までお世話になりっぱなしだ。別れ際に「また、おいでよ」といってくださったのには本当に感動した。

 

○村の水利のこと

水田だけではなく、ハウスの水も、みな村の中央を通る金草側から引いている。川の中腹をせきとめ、そこからパイプを通して水田・ハウス・などにつなげているらしい。1枚目にも書いたが渕上は生活排水の処理設備がきちんと整っていた。渕上にある80戸ほどの住宅が協力して、1つの汚水処理場を村の中につくり、下水道も通して、それによって排水を処理している。渕上はモデルとしてこの事業に取り組んだので、各々の負担は軽く済んでいる。

 

○村の道について

現在公民館になっているところは、玉島小学校の分校だった。小学1~2年生の間、付近の小学生は分校に通い、3年生になると、本校に通っていたそうだ。本校に通う際は金草側沿いの道を3kmほど歩いて通学していたらしい。その道は「ハゼノキデー」と呼ばれている。これは、「はぜの木の土手」がなまったものらしいが、文字が表すように当時は現在よりも多くのはぜの木が川沿いに生えていて、それが由来らしい。

 

〈感想〉

・しこ名が全く集められなかったのが不安要素だった。区長さんに頼んで長老の方にも話を伺ったが成果が残らなかったで、他の事をたくさん調べようと思って頑張った。区長さんにずいぶんよくしてもらった。車で、案内してくれたのが実際見ることが出来て、とてもためになった。感謝してもし尽くせないくらいだ。

・どうあがいても頑張ってみてもしこ名の収集は無理だった。仕方がない。でもその分、浜玉町について誰も調べられないような貴重な話をたくさんうかがうことが出来てよかった。私たち以外の人たちはほとんどお昼前には調べ終わってだらだらひまつぶしをしていたと聞いて、たくさん話を伺えた私たちはなんだか得したような気になった。私たちを案内してくださった方々、ほんとうにありがとうございました。

 

(お世話になった方) 佐々木弥寿さん 大正8年生

          佐々木信綱さん 昭和18年生

          佐々木正訓さん 昭和23年生



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