現地調査レポート/佐賀県/唐津市浜玉町/保坂

 

1LA97148■  田口美由紀

1LA97156■  田中美奈子

 

事前について

 今回の佐賀現地調査において、私たちが一番不安に思ったことは、区長さんや生産組合長さんの連絡先がわからず、事前にアポイントが取れなかったことです。事前の調査のために、六本松都箱崎の図書館で随分資料を探しましたが、適当な資料が見つからず、十分な事前調査ができなかったことも大きな不安材料でした。また当日のバスの中では雨が降っているのを見ながら事前調査も不十分な上、雨の中でスムーズに調査が進むのかどうか心配していました。

 

1日の行動について

 保坂の近く2人で下ろされて、バスの後ろ姿を心細く見送った後、正直どちらに進むのかわかりませんでした。購入した地図をたよりに保坂の方へ進みましたが、どこまで行っても座主としか書かれておらずどこからが保坂なのかわかりませんでしたが、最初に訪ねた家からが保坂だということがわかりました。最初に訪ねた家では76歳の浦田洋一さんからお話を聞くことができました。そこでしこ名1つと保坂の範囲を教えていただきました。浦田さんは病院から帰ってきたばかりということもあり、早めに家を出ました。次に紹介していただいた前区長さんの家を訪ねましたが、ちょうど外出中で話を聞くことができませんでした。そのかわりに奥さんから、その家の畑のしこ名を教えてもらいました。その後、保坂の端にある、教えてもらった畑を見に行きました。そこには水があり、ミズノンバというしこ名が示す通り、川に水を供給する場所がありました。そのとき雨がひどくなり、時間もお昼時にさしかかったので、屋根もある広場を見つけて昼食をとることにしました。

 昼食後、トラクターで畑から家に帰る人に出会い、お話を聞きましたが、その方は昔から保坂に住んでいる人ではなかったので、現区長さんを紹介していただきました。早速区長さん宅に行きましたが、集会みたいなものがあっており、お話を聞くことができませんでした。いろんな人に区長さんを紹介されていたので期待していた分、少し残念でした。急に訪ねたので、それは仕方のないことだと思いました。

 その後、何軒か訪ねましたが、すべて留守でした。来た道を引き返して訪ねたのが吉村さん宅でした。吉村さん宅で年配の方がわかるだろうと部屋へ通されました。その方は87歳の吉村一彦さんで、一生懸命私たちの話を聞いて下さり、奥さんと共に教えてくださいました。ここで保坂に詳しく、役場に勤めていらっしゃったという石井商店の店主さんを紹介してもらい、そこへ行きましたが、不在であり、その日のうちに帰ってこれないということだったので、再度引き返すことにしました。次に訪ねた家では犬が玄関の近くにいてオロオロしていると、その家の主人と出会いました。残念ながらその方は地元の方ではなく、ご年配の方も入院中でお話を聞くことはできませんでした。残りの最後の一軒に期待しながら訪ねたところ、45歳の浦田正史さんとそのお母さんが親切に応対してくださいました。そこではしこ名の情報はほとんど入りませんでしたが、村の古道や祭祀、水利についていろいろ教えていただきました。時間が迫ってきたのでお礼を言って家を出ました。

 以上が1日の大まかな流れです。

 

(1)   しこ名について

小字・・・保坂  しこ名・・・ツジ()、ミズノンバ、トノンヤマ(殿山)

 保坂の中に小字があるのではなく保坂そのものが小字になっていました。しこ名についてかなり聞きましたが、今はもうほとんど忘れられていたり、知っている人がいなくて3つしか聞くことができませんでした。その1つはツジ()という場所です。ここは今はみかん畑になっていますが、昔は田んぼだったそうです。そして、ミズノンバというしこ名の場所は川の上流に有り、昔ここで水を飲んでいたそうです。その川のしこ名は特につけられていませんでした。その横にある山はトノンヤマ(殿山)というしこ名がつけられて呼ばれていたそうです。しこ名というものがかなり消えつつあるというのが一番の感想です。

 

(2)   水利と水利慣行について

保坂の間には川が流れており、村の農業はこの水を使って行われているそうです。ほかの村は今でも水路があるということでしたが、この保坂では川の水をポンプを使って直接汲み上げているそうです。また水の配分の争いは特になかったそうです。

 1994年の大旱魃について話を聞いたところ、やはり水不足のためにいろいろ工夫されており、水の汲上げにおいて、30分ずつ交代で畑ごとに取り入れていたということです。この小さな川を下流へたどると、真手野川につながっています。また先ほど述べたように、上手には水を飲む場所(ミズノンバ)が昔あったそうです。この川には短いはしがかけられていましたが、その橋のしこ名を知っている人には出会うことができませんでした。

 

(3)   古道について

保坂にある道はほとんどアスファルトで造られたきれいな道でした。古道について聞いたところ、1つだけ残っているということだったので、帰り道で実際通ってみました。その古道は小石で敷き詰められており、歴史を感じさせるものでした。今も昔も、ほとんど農道として使われているそうです。

 

(4)   村の名前(シュウジの名前)、屋号について

シュウジについて尋ねましたが、保坂という呼び名以外にはないそうです。保坂そのものが座主の中にある細かい範囲であるからだと思いました。

 また屋号について聞いたところ、保坂にはないということでした。しかし、隣村の真手名や座主の一部には屋号がつけられているのか知りたかったのですが、時間がなくて聞きに行くことができませんでした。

 

(5)   祭祀について

保坂で祀られているのは明神様という観音様だそうです。毎年、1025日に観音様のもとでお払いがされるそうで、皆でお参りをするということです。お参りが終わったあとには、今年はこの家、来年はあの家・・・といったように当番制で決められた家で料理が用意され、村のみんなが集まって宴会が催されるということでした。現在でも、この伝統的なお祭りは受け継がれており、今年もきちんと行われる予定だということでした。

 

(6)   村の農業の変化について

現在、座主でも同様ですが、保坂においても水田というものがほとんどありません。もちろん、山の方であり、傾斜があるために水田はあまり適さないという地理的な事実もその1つの理由であると思います。しかし、昔は、現在畑である部分のほとんどが田圃であったということです。では、何故その田んぼが全て畑になったのかを尋ねたところ、干ばつで、水の供給が難しくなったこと、またもう1つとして、米よりもみかんの方が高額の収入を得られるという事実があったことが挙げられるということでした。やはり、時代の流れや、時代の需要とともに、農業も移り変わっていくといことを改めて感じたような気がします。現在、村で作られている主な作物はミみかんでした。今回、村の中を歩きながら、たくさんの畑を見て回りましたが、みかんの他にも、キウイといったような果物が多く作られていました。

 肥料については、現在はおもに化学肥料が使われているだろうと私たちは考えていたのですが、実際は有機質がおもに使われているということです。化学肥料が全く使われていないということではなく、有機質と混ぜて使うということでした。その上、混ぜる割合は有機質の方が割合が高いということです。化学肥料の方が、有機質のものと比べて優れていると考えており、村で使われている肥料はほとんど有機質から化学肥料へと変わってしまっているだろうと思い込んでいた私たちにとって、今現状は驚きでした。村では、化学肥料と有機質の肥料との長所と短所とをうまく利用した農業が行われているようでした。

 

(7)   村のこれから

過疎化が進んでいると思い込んでいましたが、実際、後継者に関する不安がないかどうかを尋ねたところ、その心配は特にないということであり、正直驚きました。ほとんどの農家は、もうすでに後継者が決まっているということでした。

 

感想

 今回の現地調査をとおして、保坂の人々の生活に触れることにより、農村の歴史について多くのことを学ぶことができたのと同時に、人の温かさを強く感じました。どの家でも、急な訪問にもかかわらず嫌な顔1つせず、親切に応対してくれました。中には、家の中に入れて、飲み物まで出してくださるところもあり、事前に持っていたたくさんの不安も解消される思いがしました。一番知りたかったしこ名についてはあまり聞くことができなかったのですが、その他の知っている限りのことは、本当に親切に詳しく教えてくださいました。このような人達の温かさに触れることができたことは、私たちにとって非常にいい思い出になりました。

 今回の調査の目的は失われつつあるしこ名を聴取して後世に記録として残すというものでしたが、実際調査をするにあたって、もうすでにかなり忘却されていることが分かりました。世代交代により、昔から使われていたしこ名が時間とともに消えていったという現状を痛感しました。しかし、もうすでに消えつつあるとはいえ、少しではありますが、記録として残すことに携わることができたことを本当に嬉しく思います。本当に有意義な調査でした。



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