現地調査レポート/唐津市/浜玉町/浜崎
柿原知美 1LT97042■
小林浩子 1LT97061■
川上文伴さん 50代 昭和20年代生まれ
浜玉町
浜崎
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小字 大西のうちに
小字 宮の本のうちに
小字 西町のうちに
小字 大屋のうちに
小字 東町のうちに
小字 長畝のうちに
小字 洲のうちに
小字 浜町のうちに
小字 岡浦のうちに
小字 浦町のうちに
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ニシンクチ(西之口)
ゴンゲンヤマ(権現山)
ハタケンナカ(畑ノ中)
タバタ(田畑)
ツギショ(継所)
ナカドオリ(中通り)
イママチ(今町)
コッテシンガイ(男午新開)・ムタ(牟田)
マツノシタ(松ノ下)
スザキ(州崎)
クボドオリ(久保通り)・ウラモン(裏門)
ケンノショウジ(見ノ小路)・オウゴンヤ(黄金屋)・モリドンショウジ(森戸ノ小路)
バンジュヤ(萬塩屋)・ハシグチ(橋口)
ヨコマチ(横町)・ガンギ(雁首)
サンゲンヤ(三軒屋)
デグチ(出口)
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朝10時頃バスを降りたのはいいが、私たちの目的地である浜崎にはほど遠くて、かなり手前にあるマリンセンターおさかな村まで行ってしまっていた。そこから唐津バイパスを左に折れて田圃道を抜け、筑肥線の踏切に着いた辺りで私たちはふいに心細くなった。本当にこの道を行けば浜崎に出られるのか不安になり、見渡す限り田圃で人通りもない見知らぬ町に私たち二人だけ取り残されたような気がしていた。おまけに雨風が吹いてきて、私たちはすっかり気がめいっていた。しかし今日は古老と会って現地調査をするという重大な使命を持って朝5時半に起きてはるばるやって来たのだから行くしかあるまいと、ふたりで無言になりながらも歩き続け、浜崎駅を横目で見ながら我が家のある久留米に遠く思いをはせたりした。
やっとのことでアポイントをとっていた脇山さんという古老に会う予定の場所へたどり着いたのは11時少し前だった。脇山さんは町の若者たちと、もうじきある諏訪神社の夏祭り(祗園祭)に向けてやまを作っていた。とても忙しそうだったが、私たちがいくと快く話を聞いてくれた。でも自分はよく知らないから、と言って町のそういう名前に詳しい西区の書記をしているという川上さんという人を紹介してくれ、わざわざ区民館まで車で送ってくれた。私たちは脇山さんにお礼を言って笑顔で別れ、川上さんに期待することにした。
しばらく経って「やあ」と爽やかに登場した川上さんは日に焼けてまだまだ若々しいおじいさんだった。この方もまた少しも面倒くさそうな様子も見せずすぐに話を聞いて引き受けてくれた。私たちはほっとしてあれこれと質問することを頭の中で思い出して整理しようとしていたが、2階の案内された部屋に入ってあっと感嘆した。祭りで使う山笠のちょうちんや飾りや、松の木などの道具がたくさん置いてあってとても大きくてきれいで間近で目にするのは初めてだったからである。あとで川上さんが話してくれたところによると、この夏祭りは県内で一番丈の高い山笠3台が神幸に従い、浜崎供日(くんち)と呼ばれ毎年多くの人で賑わうそうで、その時は祭りの準備が忙しい真っ最中だったらしい。けっこう大きな祭りで佐賀県でも有名ものらしく町全体が祭り一色の多忙な中、川上さんは親切に私たちの質問に答えてくれた。
さっそく私たちが地図を広げると、川上さんは急に神社に行かなければならなくなり、私たちはしばらく待つことになった。つい先程まで雨まで降って嫌な天気だったのだが、もう雨はすっかり上がり日が差していた。この西区の公民館は海に大変近く浜風が部屋まで吹いてきて心地よかった。私たちがコンビニで買った昼食を食べていると子供たちが2階へやってきて遊び始めたので祭りの飾りを壊さないかどうかヒヤヒヤしていた。およそ1時間ほどして川上さんは再び現れた。しかし私たちが地図をまた広げていると「お昼を一緒に食べなさいよ」と勧められ、みんなで下に降りてしまったので私たちはすでに食べていたのだがせっかくだしいただくことにした。したでは祭りの準備をしていた町の男の人たちや奥さんたちが集まってとても賑やかだった。川上さんたちは「もうすぐ祭りでめでたいことだから」とビールまで勧めてくれた。この浜玉町には、地域の人たちとの深いつながりや交流がとても残っているようだがここほど盛んではない。最近このような風習は減ってきたように思っていたが、この浜玉町では地域全体で一つにまとまっているようにみんな楽しそうだった。ここにいた子供たちが大人になる頃も今と変わらずこのような風習が残っていて欲しいと思う。
川上さんは、ビールを飲みながら、この地域の昔のことについて話し出してくれた。隣に西区の区長さんなどもいて、「そうそうそうやった」とうなずきながら紙に昔の通称地名などを書いて行ってくれた。何人かの昔のことについて詳しく知っていそうな人たちと話が盛り上がったあと、「そういえばあの人がよう知っとる」と思い出したように行って、いろいろな人に電話をかけて呼び出してくれた。するとすぐに感じのいいおじいさんたちが公民館にかけつけてくれ、私たちの話を理解もしてくれ昔のことをたくさん語ってくれた。浜玉町には親切な人が多い。古老の人数がそろったおかげでかなりの地名が集まり始めたので、私たちは食事を切り上げ、2階でまとめることになった。
浜玉町には田圃はなく、しこ名はなかったが、圃場整備前の通称地名や川の名前について詳しい人はけっこういて、地図も正確に読める人たちばかりだったので、スムーズにその位置を地図に落としていく作業は進んだ。一人が「ここはこういうふうに呼ばれよっただろうが」と言うとほかの人が「ああそうやったそうやった」とうなずいてそして全員で懐かしそうに笑い合っていた。聞いてみると町の地元の人たちのあいだで通用する伝統的な名前はたくさんあるのだなあと感じた。その他にも昔の町の話について口々にたくさん話してくれた。
私たちのいる西区公民館付近の100坪くらいは40年くらい前までモーラ館といわれるイギリス人の別荘地帯であり、その南の現在は住宅が整備された一帯は、昔は墓地が町と海を隔てるように東西に一直線に続いてあったらしい。浜崎は海に面した町だが漁村というわけではなく、以前は現在のように住宅は進出していず、かなり内側まで浜が続いていて、終戦まで桑や麦、さつまいもなどの畑作がおもに行われていたという。また、町では昔、麻、小豆、胡麻は作らないことを習慣としていたそうだ。これは諏訪大明神につながりのあることらしい。また、モーラ館の辺りにはぶどうやかきや桃などの果樹園が多く、川上さんたちは小さい頃こっそりとっては逃げて食べていたという思いでも懐かしそうに語ってくれた。浜崎の東を南北に流れる比較的大きな横田川という川があるが、その川は昔は本川と呼ばれていたそうだ。その川上に近い方に花田橋という大きな橋があるが、その橋は昔もっと北の方にかけられていたらしい。海の被害などについても尋ねてみた。すると古老たちは顔を見合わせながら、「それはなかったようだ」と声を合わせていった。海は穏やかで、津波などの被害もなかったという。今は海水浴場として砂浜が広がっているが、昔はもっと海が迫っていたそうだ。モーラ館は海に面していたが、そのすれすれまで海だったという話を聞いた。車でこの西区の公民館に来る途中も海がチラッと見えたが、とても青くてきれいだった。なるほどイギリス人が別荘を建てたわけだと納得できた。そのモーラ館はいつごろからあるのか尋ねてみたが、古老たちもそれはよくわからないらしい。古老たちのおじいさんたちの代からすでにあったらしいので、ずいぶん昔に建てられたようだ。戦時中にはそのモーラ館は国から没収され、そののち中国人の手に渡りそうになったけれども、町の人たちが懸命に講義して取り返した結果、この土地に今も残っているそうだ。川上さんの話によると、もし梅山町長の時代にモーラ館を買収しなかったら、今頃はこの辺りには中国人達の住む地域になっていただろうということだった。
祇園祭りの準備で忙しい中、このような話をたくさん聞くことができた。また、祗園祭りの期間にはキュウリは食べないということも聞いた。私たちが何故かわからず尋ねてみると、キュウリの輪切りが祇園さんの紋に似ているかららしい。昔の人は細かな部分までこだわって伝統というものを大切にしてきたのだなと思う。この辺りに限らず、祗園祭りのあるところは、博多でもそういう習慣であるらしい。
この調査を終えてみて、私たちはたくさんの人の親切に触れ、とてもいい経験をしてなと思った。浜崎はコンビニは町に1つしかないけれど、町の人たちはみんな穏やかで温かいという印象を強く受けた。私たちは協力してくれた古老の方たちに心からお礼を言って、あまり迷惑をかけすぎてもいけないので早めに切り上げた。古老の方たちは笑顔で見送ってくれ、私たちにしてはうまくいった方かなと満足しつつ、気持ちよく公民館を後にした。