【東松浦郡七山村滝川】 歴史と異文化理解A 現地調査レポート 1LA97081 川越武志 1LA97094 蔵谷ゆかり ○調査協力者 阿部平六さん 大正2年生まれ
1 しこ名について七山村滝川 イシダ(石田) ホトケビラ(仏平) ヒラバタケ(平畑) マエダ(前田) アマミズ(雨水) ミョウジン(明神) コガウラ(古河裏) ロクタンダ(六反田) キトウジ(祈祷寺) オンザカ カミナカオ ヒラバタケ(まま) 田畑 小字 石田 仏平 平畑 前田 天水(まま) 明神 古河裏 六反田 祈祷寺 *数人に聞いた話によると、小字としこ名は全く一致しており、それ以外の呼び方を聞き出すことはできなかった。 山 小字 不明 オンザカ 不明 カミナカオ 不明 ヒラバタケ 橋 小字 松浦 祈祷寺 森の木 *すべて明治時代よりつくられたもので左記以外の呼び名はなかった。 谷 不明 アマミズ(天水)
2 水利と水利慣行について(1) 堀……堀はない。 (2) しいど、井手 七山村滝川における水路 ○使用している用水 新井手 大井手 天水井手 ウチノ井手 *これらは全て滝川単独の用水である。 ○用水源 観音の滝(滝の観音様) *滝川の水はすべてこの滝でまかなわれている。地図には赤で示している(地図省略:入力者)。滝の観音様は目の悪い人を助けるとされ、村の観光名所としても有名である。 ○配水の慣行、約束 旱魃のときもある分の水で済ませ、特別な約束事もなかった。滝川は比較的水の豊かな土地であったようだ。ただ、夜に下のほうの田の人が上のほうの田の人の水路を閉じ、自分の田に入れるという「夜水引(ヨミズヒキ)」の風習はあった。 ○水争い 隣の村との争いなどは全然なかった。
また、1994年の大干魃について聞いたところ、「3年前は水田が減り、ほとんどがミカン畑になっていたのであまり関係なかった。」ということである。 3 村の範囲目印となるような道や水路などの村の境界線はないそうだ。昔から「このへんは滝川」のように、だいたいの区別けですまされてきたらしい。
4 村の耕地について(1) 村の耕地 田にはタタミ一畳ぐらいの広さのものもあった。 (2) 乾田と湿田 麦がつくれるという乾田には、キトウジ、マエダ、ロクタンダの3つがあった。その他は皆湿田だった。 (3) 良い田と悪い田 滝川は七山村の中でもこれがよく取れる方だったらしい。滝川の中でも、特にアマミズ、キトウジなどがよくコメが取れたと言う。化学肥料を使い出す前でも、豊作の年には、一反10俵も取れたこともあったらしい。普通の年は3〜5俵ぐらい。化学肥料を使い出してからは7から8俵取れるようになった。 滝川の中であまりコメが取れなかった地域は、ミョウジンである。標高が高いため、化学肥料を使い出す前は一段につき2〜3俵しかとれなかった。
5 村の生活に必要な土地村の共有の山林というのは特になかったらしい。風呂をたく燃料などは手近な山から取ってきて使ったそうだ。その山を雑木林と呼び、そこら中にあった。
6 村の道滝川の住民が昔使っていた道は、現在の国道323号になっている。昔はごく細い道だったそうだ。その道を牛の背にくくりつけた米を運んだり、薪を運んだりしたという
7 祭祀について1 家や付近で祀っている神 大黒さま、恵比寿様を祀っている家が多い。 2 神社 滝川の人は加茂神社の氏子である。 <加茂神社の由来> 延暦13年、桓武天皇が遷都した際、京都鎮護のため乾の方向に上賀茂、下鴨納涼神社を経て、別雷の鍵を忘れぬ 貞観18年代ライブが京都を襲ったため、清和天皇が賀茂、賀茂神社に鎮雷の祈願をなさった折、たちまち雷には収まり、天皇の御所も事なきを得た。このことから清和天皇は全国にこの神社を広めて神を守ろう、全国48カ所に神社を立てた。九州では七山と肥後の山本、吉本にある。 賀茂神社で祀る神社としては八幡様、七郎大明神、正一位稲荷大明神がある。 3 お祭り 筆者が調査をした7月12日はちょうど賀茂神社で夏祭りが行われるであった。時間の関係上祭りに参加することができなかったが、祝言を見せてもらったり祭りの道具を見せてもらったりすることができた。賀茂神社の夏祭りでは病魔を払うために、清めをするそうだ。夜店などはないが、その代わりに草で作られた輪が置いてあり、その場をくぐりぬけることで清めをするのだろうと思われた。 |