【東松浦郡七山村野井原】 歴史と異文化理解A 現地調査レポート 1LA97065 大原弘夫 1LA97096 黒川真悟 1LA97097 黒木 仁
○聞き取りしたおじいさん 岡本信二さん 65歳 ○村の名前 七山村野井原 今回の調査の目的はしこ名を調べることであったが、聞き取りをした人の話によると、田んぼのしこ名は分からないそうだった。その理由として村の歴史が比較的新しく、また5年前に地籍調査があり境界を変えたところもあるらしかった。その上、資料もなくほとんど分からないということだった。分かったことは田んぼのしこ名が一つと山のしこ名が3つ、水路が2つと地区が3つである。以下に挙げると ・田んぼ ナカオ(中尾) ・山 ヨボシ山(エボシ山) ヨボシ山については「ヨ」ではなく、「エ」かもしれないという話もあった。 クギヤマ(釘山) ウキタケ ・水路 ウルシサコ 場所については地図に記載。
水に関する話 藤川の方面は水が少なく、そのため賀茂神社の上の水路から藤川へ水を引いているらしかった。その工事は大工事だったと聞いていたそうだ。そのような工事が行われた理由として、藤川に庄屋がいて水を自分たちのところに引きたく、その工事を行ったということだ。けれども、その後も水をめぐる争いは野井原と藤川との間で頻繁に起こり、戦後も幾度もあったらしい。 しかし、一度大雨になると土石流が起こり、度々被害が起こっていたらしい。嘉永3年(1850)には大規模な土石流により死者も出、神社等も押し流されたらしい。特に滝の上あたりは、今は水路があるが昔は大雨が降った後は大変だったらしい。そのため14年前に砂防ダムが、そして最近流動湖がつくられたらしい。 また蟹川付近は山崩れが多く、災害もよく起こった。 逆に干魃の時の水対策としては山の中腹に横井戸を掘り、水を自分の家まで引いている人も多くいたらしい。また、戦後はボーリング業者に来てもらい掘ってもらって干魃を乗り越えた。昔はパイプなどの代わりに竹の節をとったりした竹を使った。 街では時間給水のようなことをしていたが、七山村ではそのようなことはしていなかったらしい。
水路 水路のウルシサコは共同で使うためみんなで作ったらしい。昔は共同で水路の補修をしていた。けれども今はほとんど田んぼがなくなりミカン畑になっているが、そのミカン畑も今はなくなってきて、水路を使う必要がないらしい。 昔は用水路は村共同であり、使用に関しては細部まで決まっていた。 何かもめ事があった時は、田んぼに片足を突っ込んで話し合いをするということだった。
道路 ウルシサコ地区では20〜30年前に自分たちの労力でミカンを運ぶために道をつくり、地区の名称を道に付けた。
燃料 ガスが入る前、燃料は七山村の人にとって大きな問題だったらしい。冬の間に1年分の薪を切り、それを一年を通じて使っていたらしい。また、こちらでは薪のことを「たきもの」と呼んでいるらしい。
農業 農業についての話もあった。それによると土にも種類があり、田でとれる量が異なってくるらしい。この地方では化学肥料が1960年頃やっと回ってきたらしい。それまでは刈敷や畦草、堆肥等を使っていたらしかった。しかし、化学肥料を使うと使わないとではそれほど差はでなかったらしい。 田を買うときは刈敷をとる草原付きで買っていたらしい。それほど刈敷(耐久肥料)は重要だった。
入会山 入会山もかなり広い範囲であったらしく、藤縄と呼んだらしい。地図参照(佐賀県立図書館所蔵)。
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