【東松浦郡七山村仁部・下門】 歴史と異文化理解A 現地調査レポート 1TE95761 斉藤世継 1LT97091木村悠二 ○聞き取りしたおじいさん 中島俊一さん 明治40年生まれ ○村の名前 七山村仁部(にぶ)、下門(しもかど) ○しこ名(ただししこ名と小字は全て同じ。詳細は後述) マエカワウチ(前川内) ゴウノウエ(郷ノ上) ドウカク(道角) キトウチ(祈祷地) タニ(谷) キタノマエ(北ノ前) ナカオ(中尾) キタノサカ(北ノ坂) キシダカ(岸高) *マエダ(前田)……タニの中にある。 *ニタン山……前川内、郷ノ上あたりにある山。 *印は小字名としても残っていないしこ名。 前田は田んぼの前田から。 ニタン山は昔ニタンさんというお金持ちがいたかららしい。 中島さんは七山村ができた当時役場の職員をしていたらしく(七山村は創立100周年を3,4年前に迎えたらしい)、今の小字として残っている名前はそれ以前から使われていた。しこ名(中島さんは‘あだ名’とも言っていた)をそのままつけたらしい。果たして本当なのかは分からない。なぜなら中島さん以外はしこ名の存在すら知らない状態で、中島さんの次のご老人は年が60代と若く、今のきれいに舗装された七山村しか知らないからである。
水利について ○用水源……ハクサン川(白山川) ○共有している他の村 他の村というより仁部と木浦という部落 ○慣行、約束事 その昔は水争いがあったらしく、二つの部落がそれぞれ水番をしていた。中島さんは水争いのときの仲裁に苦労したらしい。 ○干魃時 3年前の干魃のときは既に田んぼ自体の数が減少しており、そんなに困らなかったそうだ。その昔、干魃だったときはため池があり、そこから水を引いていたそうだ。
○その他 ・七山村 ‘鳴神の里’と‘めずらの里’が合わさった。七山村を含め、いくつかの村になった。名前の通り(鳴神の里)昔は万葉集にも載っているぐらいの聖地だった。この土地の人はそのために自分たちを誇る。自分たちを一つ上とみる傾向があった。 ・現在の七山村 昔は5,000人の人口で田んぼもたくさんあったが、今では3,000人の人口で我々が見ても分かるぐらい田んぼが少なく、道もきれいになっていた。
○感想 今回の調査をとおして感じたことは、まず‘村’が‘村’というより‘町’だった点である。道路も広く、新しい建物(役場はすごく新しく近代的だった)も目についた。また見る限り田んぼはほとんどなく、用水路も目につかなかった。その中でたった一人昔に詳しい(自称であるが)中島さんに話をうかがったが、たくさん話が聞けたのはよかったが、その確認をとれる他の老人がいなかったのが残念だった。ただ中島さんは中卒ながらも七山村の教育長までされた方で、お話はおもしろく分かりやすかった。90歳近いお年には見えなかった。今回の調査をきっかけにたとえば自分の田舎などにも興味・関心をもちたい。 |