【東松浦郡七山村中原】 歴史と異文化理解A 現地調査レポート 1LA97168 當房健志 1LA97169 遠山 純 調査日 7月6日(日)
実際の予定より6日早く、我が班6名が七山村に行くことになった。私が8時集合という約束に10分遅れ、えらく顰蹙を買い、バスにも立ち乗りになってしまうという悲惨な状態になってしまった。しかし、これはまだ悲劇の序曲にしか過ぎなかった。 9時45分に浜玉町に到着。ここでバスは別方向に行ってしまうので、私たち班員は降ろされて、七山村役場(滝川)行きのバスを40分ほど待つことに。田舎での40分を潰すのにはかなりの労力が必要であった。 10時25分にバスが発車。樽門で調査する2人を降ろした後、 11時ごろに七山村役場に到着した。この後、バスが通らないので(日曜日なので一日便のうち3便が運休してしまう)、徒歩で中原地区、大屋敷地区に行くことに。まぁ、これが今回1番のミスであったということは言うまでもない。 役場で清掃している人に距離を聞くと、「うーん。 3から4キロっていうところかな。すぐ着くよ。」とおっしゃったので、そのまま歩いていたのだが、道は険しい坂道が続く。地形図で読み取れなかったのをすごく後悔している。はっきり言って死にそうである。しかし、その苦しい道のりの中でも、山の谷間にある田園風景、美しい観音の滝を見ながら心地よい風(実は当日佐賀県は強風注意報だったらしい)が吹いてくるというのは久々に味わう気持ちよさだったと思う。 どうにかこうにか、 13時前に中原地区に到着する。しかし、他の2人(川内、中岡両名)は、さらに先の大屋敷地区に行かなければならず、大変申し訳ない気持ちだった。服部先生、この2人には是非特優をつけてあげてください。そういうわけで、中原バス停から、 5分ほどの所に区長の天川さんのお宅があり、そこにお邪魔して、古老の志村さんを待つことになった。 吉村さんにお越しいただき、天川さんとともにいろいろな話を伺った。詳しい事は後に記すが、村の歴史、農業の変遷といった言葉でお話ししてもらった。 15時30分ごろに調査が終了して、大屋敷で他の2人と合流するが、結局、中原まで戻ることに。その後、タクシーを呼んで、 17時30分頃ようやく、浜崎駅に着く。それにしても大変な一日であった。 T 七山村中原集落管轄の小字
七山村中原地区 U しこ名一覧(田畑)
V その他のしこ名 橋、水路、谷、山etc <橋> 池原橋 地元では学校橋と呼ばれている。 *池原小学校に向かう道に建てられた橋。ちなみに池原小学校は昭和62年に七山に統合され廃校となった。 <山> 松平字に位置する山を地元では「イサミタゲケ」(勇嶽)と呼んでいる。 標高は617.5bである。
<水路> 地元では水路のことを井手(イデ)と呼ぶ。
<谷>
W 焼畑について 吉村さんの話によると、昭和30年代まで、田の周辺では焼畑が続けられていたそうだが、現在では行われていないということだった。
X 村の水利について 中原地区では山上字(あざ)の方で、個人所有の水路が数カ所あるくらいで、残りはほとんど共有のものである。水は滝川川、大谷から引いてくるものが主である。吉村さんは水利の争いについて、「個人的な水利の争いはあったが、村での(部落間)での争いなかった」とおっしゃった。 池原川(滝川川)、大谷とともに十分な水量を持っていると、自分も散策しながら感じていた。3年前の旱魃時の影響を伺ってみると、実際はほとんど影響なく、池原川からポンプを使用して水を汲み上げることで十分にカバーした。それに大谷は山から流れる自然の湧き水で、これが使える絶えることはないので、安心して農作業もできるということだった。 しかし、池原川は川幅が狭いので、大雨の時はいつも心配になるともおっしゃっていた。
Y 中原地区(七山村)の農業の変遷と問題点 かつては専業農家が主だったが、現在では兼業農家がほとんどで、賃稼ぎと農業との組み合わせで生計を立てている。天川さんもこの地区の土木会社に勤めていると話してくれた。 農村では、必ずと言っていいほど後継者問題が出てくるが、それは七山村でも例外では無い。まず配偶者がいない。女性がいない。また、子どもを持っても、別の稼業に就いてしまうことが多いそうだ。次の代で百姓を続けられない家が3分の1はあるだろうと吉村さんは話した。
○調査に協力してくださった方々 吉村義一さん 大正10年2月生まれ 天川俊文さん 昭和21年11月生まれ
以上でレポートを終わります。 |