【東松浦郡七山村桑原】

歴史と異文化理解A 現地調査レポート

1LT97122 原田佳代

吉長美佳

 調査日 1997712

 聞き取りをした人

 村山正輝さん(区長) 昭和13年生まれ 

 

しこ名について

田んぼ

 シモ……村の下の方だかららしい。

 デグチ

 フゲダケ

 マツノモト

 ミヤンマエ……子安神社のあたり

 カシバル……樫原湿原のあたり

 ヤマグチ

 マメンスゲ

 アサンサコ

 コバヤシ……屋号「コバヤシ」の辺り

 

 ニシノハタケ……桑原の西側に広がっている

 *しこ名は上記のとおりである。また位置は地図に示してある(地図省略:入力者)

 

屋号について

この桑原には数多くの屋号があった。それぞれに深い意味がある。例えば、桑原における位置を示すもの、またはその部落でどのような位置を占めているかということだ。ここでどのような屋号があるか上げておきたい。

ミズガシラ(水頭)

 昔からの桑原の長。現在の大久保さんと言うオお宅。

ヒガシ

 親戚同士。また4軒ほど加茂さんというお宅があり、ここで「一つの村」というのを形成しているらしい。

ニシ

ムカエ

 加茂さん一族の隠居の方々が住んでいた。

コバヤシ

コウラ

ウーチ

 村の中心部に位置する。

イデンシタ

ナカタ

これらの名でどこの家から分かる。なおナカタとウーチは現在空き家となっていた。

 

村の水利について

桑原では、田んぼへの水は川からひている。昔は、自然の湧き水だったそうだ。水不足にはあったことがなく、1年中水はたっぷりある。おかげで水流争いはなく、1994年の干害にも巻き込まれることがなかったらしい。確かに見渡すと水田にはたっぷりの水が張ってあり、水不足などという言葉が胸に思えた。

村の範囲

池原橋あたりから、桑原橋あたりが大体の境界。地図参照(地図省略:入力者)

村の耕地について

ここ桑原では、このコ耕地についてはかなりの変異があった。

以前は畑ではムギ、ジャガイモを作っていた。しかし、安価となりこの2つの作物ではやっていけなくなったことから、現在では野菜系は自家用のみしか作っていない。

しかし、画期的ともいえる変化が起こったのだ。この部落では現在、ハウストマトとホウレンソウを作って生計を立てている農家が多い。6人くらいハウスを持っていて、ハウストマト栽培しているとのことだった。ホウレンソウは、全体で14反程作っておられる、とのことだった。

もう一つ、以前の麦畑などがダメになってしまった理由は、耕地が荒れてしまって、痩せてしまったということである。これは田んぼにも共通することで、荒れ地となってしまった田畑がいくつか目に入った。

また、この部落の人たちは、50%が専業農家でもう50%が兼業農家ということであった。そしてこの2種の人たちの決定的な違いは、専業農家という人たちは、全部有機肥料(農協の“有機90”という資料)を使うということだった。一方、兼業農家の人たちは、化学肥料を使っているということであった。また、専業農家の人たちの有機米は農協には出さず、個人で売っているそうだ。また、直接買い付けに来る人もいるらしい。なんでも、魚沼に負けない美味しい米だそうで、話を聞かせてくれた村山さんも、 150俵ほど出荷しているそうだ。福岡大学病院で大人気だそうだ。その上、トマト有機栽培をご馳走になり、お土産にいただいた。とてもおいしかった

村の生活に必要な土地

桑原は山地の部落なので、共有林は3箇所あった。合計の面積は一町二反になる。 1カ所は切り出してから、4年から5年になるそうだ。このあたりに、公民館の改築を行ったそうだ。もう二箇所はまだ切り出しておらず、滅多なことでは使えないらしい。これは個人が負担がかからないようにするためにあるのだからだそうだ。また、お保安林というのが3反から4反あった。ここには税金がかからず、伐採には、手続きがいるそうだ。やはり、こういった共有山林はみんなのものということで思い入れが深く、きちんと手入れされるそうだ。

村の道

今ではほとんど使ってない道があったが、これは昔、台風などの時などの非常事態に備えての道があった。

祭祀

この部落の信仰の対象となっているのは、子安神社という安産の神様が祀られている神社である。この神社は外国からも参拝する人がいるということであった。

お話を村山さんから聞かせていただいた後、この神社に案内していただいた。社の作りが見事で、細かな彫刻が施されていた。この神社は村落の人々の話し合いの場でもあり、親睦の場所でもあった。ここでの祭りは下記の通りであるある。

・桑原での祭祀

110 初祭り(七山村から神主様が祝詞をあげに来られる。)

5月初旬から6月初旬。お籠り→田の神様の豊作祈願。

秋のお彼岸……3回ある(入、中、あがり)

10月から11月……いいのこさま、神渡し→出雲大社系統であることが分かる。

 

まとめ

村のこれから

以前は43戸だったのが、現在は16戸と半分以下となっている。これは、やはり、大きな原因は生活圏が確保できないということであった。だから、家族ぐるみで街に出て行く人が多いとの事だった。村山さんは、「もう戸数が増える事はないでしょう。課題は、いかにこれから、自分たちの生活を守っていくか、ということでしょうね。」と語られた。

現在、小学校、中学校はバスで通っているそうだ。なんでも、中学校のバス旅は有料だそうで、子供たちの減少が伺えた。このようなことを考えると村山さんはため息混じりに、「やはり人がいなくなると、もっと農地が荒れていくでしょう。」おっしゃっておられた。

しかし、この部落の強みはなんといってもその水の豊富さにあるあるから、周辺地域との水利の争いが一切無いのだ。これは以前にも述べたことだが、村山さんは、「水は大切なものですね。」と微笑んでおられた。

また、昔から伝わる伝説を村山さんは話してくださった。

「なんでも、昔、裏の山が崩れてしまって、この辺がすべて土砂に埋まってしまったんです。だから、今の部落は、その上に出来ているんです。土を掘り起こせば、昔の村が出てくるんですよ。」

もう一つ興味深いお話をしてくださった。

「昔、薬師様を祀る人のお告げで、 土砂災害を免れたのですけれど、その後、村が全焼するという事件が起こったのです。なんでも、一人一人が自分の家だけの消火に当たったためらしいのです。でも、その次の火災では、徹底して火元の家を消そうとしたのです。だから、もう燃え広がることはなかったとか。これは村史にも載っていますよ。こうやって、私たちは、村を守る知恵も身に付けているのです。」とおっしゃっておられた。

現在では、タンクが設置してあり、放水口にホースを繋ぎさえすれば、水がすぐに放射されるそうだ。それが村の2,3箇所にあり、火災に備えているそうだ。

「こうやって、みんなで、桑原を守っていくのです。」と村山さんは誇らしげに言っておられた。

桑原と圃場整備

ここで付け加えなければならないのは、 20年前に行われた七山村で最初に行われた圃場整備である。このおかげで、ここ桑原の生活がずいぶん変わったといっても過言では無いのだ。

この圃場整備のおかげで、水がよく湧き出るようになったし、干ばつもなく、大きな田に回すのが少しの水でよくなり、水回りが良くなったし、それによって、ハウスのトマト栽培に手が回るようになったのだ。

本当にハウスのトマトは成功でしたと村山さんがおっしゃる。

圃場整備のおかげで、トラクターが入れるようになったから、大幅に能率がアップしたのですよ。ただ、昔の方が圃場整備されないせいでトラクターが入れず、ますます荒れ地となっているのです。でも、桑原の個人の他の面積所有率は七山でも一番です。やっぱり、圃場整備のおかげですねと言われた。

しかし、荒れ地は植林となるそうで、きちんと利用はされているらしい。

私たちは、ここで、村田さんに減反政策についてどう思われたかどうか聞いてみた。村山さんは、「桑原の者は挫けませんでしたよ。そこでハウスを作ったのです。トマトだと、 3月から10月まで収穫があるから、 1年中、安定した収益が得られるのですよ。33年前に、一致団結してトマト作りを始めました。今ではあの挑戦が吉と出たのですよ。」と懐かしそうに目を細められた。ホウレンソウも3人作っているのですが、品種改良でさらにまた良くなっています。」と言われた。

だから、「生産意欲のある人はどんどん儲かっていますよ。半面、ついていけない人も出るでしょう。」と矛盾性らしきことも示された。

「こう考えてみると、桑原はこれからどうなるかと、考えずにはいられません。あまりにも、農業への風当たりが厳しくなっていますからね。」と、不安も漏らされた。今後、村山さんたち専業農家の人たちにとって、日本の農業がいかなる方向へ向かうかが大きく村山さんたちを左右すること間違いないだろう。それにどう対応されるかが、問われる村山さんたちは、毎日必死になっておられるのである。

感想

初めて、今回佐賀県の七山村を訪ねたが、日本の国が決定したことが、余波となって、村全体に影響を及ぼしているのだと思った。(例えば減反政策など)

またしこ名などを調べると、その時の中での人々のつながりがよくわかった。子安神社には、神社の改築費用の石碑が立っていた。そういうものからも、村落間での強い連帯感があることがよくわかった。そして、その時にはその土地の歴史が刻み込まれていることも……。

今回、この授業で得たものは単なる知識だけではなく、人と人とのつながりといった、温かいものであった気がする。

機会があれば、もう一度訪ねてみたい。このレポートを書くにあたって、村山さんには本当に感謝の気持ちが溢れんばかりのお礼を言いたいと思う。

 

要望、意見

私たちは1号車だったのだが、院生が道をよくわかっていなくて、バスに乗っている間中不安だった。しかも、事前調査がされていないらしく、バスが通れない道がルートになっており、回り道をして予定の時間にかなり遅れた。しかも、その回り道が最悪の山道で腹が立った。また、バスが通れなくなり、歩いて山を越えねばならなくなった。途中でトラックのおじさんに乗せてもらえたので良かったものの、そうでなければ約束の時間にとても間に合わないところだった。

そこで、次回からはもっとよく事前調査を行って、せめてルートくらいはバスが通れるようにして欲しい。また、せめて公衆電話がある所を選んで欲しい。



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