【東松浦郡七山村狩川】

歴史と異文化理解A 現地調査レポート

1LA97080 河合勇治

1LA97111 後藤清彦

 

712日土曜日、小雨の降りしきる中私たちは佐賀県東松浦郡七山村を訪れた。国道323号線沿いの鮎返というところで私たちはバスを降りた。

前日までの大雨の影響で普段穏やかな玉島川がごうごうと唸りをあげていた。我々の調査地である狩川地区まではまだ距離があり、そこまでの道を把握することが先決であった。そこで、バスを降りた地点の近くで、通りがかりの人に道を尋ねた。その方は快く狩川までの道を教えてくださった。その笑顔が私たちの胸から不安を消し去ってくれた。

教えてもらった通りに、国道からい枝分かれした山道を上り始めた。登る途中で何回も銃声のようなものが鳴り響き、そういえばさっき看板に狩猟地域といったことが書かれていたことを思い出し、怯んだ。その上、坂の交配も急で嫌になった。それでも我慢してひたすら歩き続けているうちに、眼前に人家がポツリ、ポツリと見え始め、さらに歩を進めていくと、道の両側に沿った路村のような集落が現れた。

まず、その集落のことを知るのは公民館が一番であると考え、住宅地図で位置を確認し、公民館に向かった。しかし、公民館というのは名ばかりで、人家と見間違い、通り過ぎてしまうほどであった。

公民館の扉を開こうとしたが開かない。つまり人がいなかったのだ。畑に人影もなく、私たちは公民館の軒先で途方にくれた。酒屋には人が集まるかもしれないと思い、とりあえず狩川地区唯一の酒屋を訪ねてみた。

酒屋のご主人は60歳ぐらいに見えた。字名のことを知っているかもしれないと思い、聞いてみたが、知らないとのこと。もっと年寄りに聞いてみろ、とも言われた。どうやらこの地区で60歳は若いらしい。仕方なくまた公民館の軒先に座り込み、どうしたものかと考えた。ふと目をやると、軒先で仕事をしているご老人がいた。その人に聞いてみようということになり、早速その人の家を訪ねた。

そのご老人の名前は草場武一さん。明治43年生まれの87歳で、彼らは地区では最長老だそうだ。草場さんによると、この家は狩川で1番古い家柄で、昔から狩川、樽門、白木をあわせた大白木の庄屋をしていたそうだ。

武一さんは2週間前から考え事をすると、頭が痛くなると言っていた。逃げ口上か、とも思ったが、そんなことを言えるはずもなく、仕方がないので誰か他にこの地区の事について詳しい人はいませんかねと尋ねると、この地区はもう若いのしかいなくて(ここで言う若いの上60歳ぐらいであろう)、他に行っても分からないだろう。もう少ししたら、 12時くらいになったら息子が帰ってくるというようなことをおっしゃった。それではまた出直してきます。と私たちが言うと、よかったらここで待ってもよい、と言われたので、お言葉に甘えて、息子さんの帰りを渡せてもらうことにした。この時時計は1130分を指していた。

息子さんは農作業に出かけて行っているそうで、前述したが、12時には帰ってくれるそうだ。それまでとまで待たせてもらった。武一さんは考え事をすると頭が痛いと言いながらも、奥のタンスから草場家の家系を示した書物を出してきてくれた。

その冒頭に、藤原鎌足と書いてあるのに仰天した。鎌足、鎌足といえば、あの大化の改新で有名な鎌足ではないか、これは家系図の前の前書はとして書かれていたのだが、それにしてもここまで来るとは思わなかった。家系図の1番最初、つまり初代草場家は「従五位下草野陸奥守上藤原鎮行」という人物であった。その人の経歴らしきものが書いてあるところに、なんと聖武天皇という文字が書いてあるではないか。

聖武天皇の在位は724年から749年、つまり奈良時代である。この家は奈良時代から続いているのかと率直にびっくりした。

初代から数代見ていくと、能登守、紀伊守、 陸奥守、肥前守と歴任している。それから十数代は同じ状態で、次にふと目に入ってきたのは「元弘大乱……」である。ここでいう「元弘」とは、その後の記述と照らし合わせて、「元寇」のことであろう。元寇の大乱事に活躍し、褒美をもらったというようなことが書いてあった。

それからまた数代の記述は、「豊臣秀吉が朝鮮征伐の時……神領を没収せられよりて、草野家滅亡す」と書いてあった。武一さんによると、朝鮮出兵の草場家も朝鮮にまで行ったが散り散りばらばらになって帰ってきて、滅亡したのだそうだ。

また診神領というの聞いてみると、草場家は肥前に鏡山というのがあり、その麓に鏡神社というのがあって、そこの宮司を歴代務めていたらしいのだ。

草野という姓はここで終わっていて、ここから草場という姓に変わっている。ということはつまり、この家はどうやら、藤原→草野→草場というように姓が変わっていいたらしいのだ。武一さんによると、草場の姓になってからこの大白木の地に落ち着き、庄屋となったそうだ。ちなみに、この「狩川」の地区、昔は「加里川」という文字を宛てていたらしい。巻物の中に「加里川」という文字があった。

その巻物を見ているとき、なにも話してくれないのかと思っていた武一んが、水害のことについて話してくれた。

5年前まで草場さんの家の前を流れる川(人は狩川川と呼ぶ)は人の手の付けられていない自然の川であった。

ちょうどその頃、川の上流にあたる大白木にゴルフクラブ場(佐賀ゴルフ倶楽部七山コース)ができ、山が禿山になってしまった。そして5年前の大雨でハゲ山の斜面の地が濁流となって、狩川地区の人々を襲ったのだ。その勢いはとても激しかったらしく、狩川地区の4軒は軒の高さまで水につかったそうだ。草場さんの家は川沿いでもうすこし高いところにあったので、それほどでもなかったが、それでも炊事場の下半分は全部流されてしまったらしい。この水害で、軒先の赤さに達した水を避けるために、2Fに逃げようとした人が、割れたガラスで大腿部の動脈を切り、不幸にもなくなってしまった。こっちに逃げてくればよかったのに。そう話す武一さんの目が一瞬遠くを見つめるような目にになった気がした。

この水害を気に、国の事業で川の両岸をコンクリートで固める工事が始められた。狩川川の両岸を5 kmにわたってコンクリートで固めて強固なものとした。この事業には1112億円という莫大な金額が費やされた。

こういう話をしているうちに、武一さんの息子さんが農作業から帰ってこられた。

 

しこ名

まず、しこ名について聞いてみた。草場さんの家で現在でも残存し、使用されているものは3つ、 4つだった。彼らは地区最古の家だけに、もうちょっとあるかなぁと思っていたので、少し残念だった。草場さん方でこれだけしかないとなると、他の家を訪ねてみても、そんなに多くのしこ名は集まらないだろうと判断した私たちは、別の角度からもう少し上川地区についてのお話を伺った。

水利

まずは水利のことについて聞いてみた。この狩川地区では水利争いはなかったそうだ。特に明治以降は全く聞かないらしい。狩川地区は集落の中央を狩川川が貫き、周りの集落とも離れているので水争いがなくても不思議ではないと思った。

古道

古道についてだが、私たちは狩川まで、玉島川と狩川川の合流点よりもっと上流の地点から上川地区へと登った。狩川地区から一山超えて私たちの上り始めたところよりももっ下流に、下流に出られる道があるそうだ。昔はここを「牛だる」と言って、牛の両方に荷物を負わせて物資を流通させていた。

水害

次に水害について尋ねてみた。さすがに農業に携わって生きている人らしく、水害は平成3年、干害は平成6年と即座に答え、私たちを驚かせた。

干ばつの時はどうやって乗り切ったのか尋ねてみた。この狩川地区、現在は川沿に少しの水田、後はほとんどがミカン畑だそうで、水田は干ばつの影響を受けなかったそうだ。ミカン畑のほうは、家のほうに井戸を掘って水槽を作って、その水をタンクに溜め、山に持って行って水をやったらしい。それでもその年は、売りに出せない「クズミカン」があった。干ばつの影響を受けたミカンは、受精の関係で、23年は完全には元に戻っらない。水槽、タンクのような施設がない30年前だったら、回復がもっと遅れていただろうと息子さんは言う。

生活全般、農業全般

飲み水、生活用水は全てが井戸水。ちなみに井戸はほとんどの家にあるそうだ。川の水はほとんど使われない。農薬を溶かす水として使われる分くらいである。

昔はほとんどが水田にあったが、政府の減反政策のあおりを受け、水の得やすい川沿いにだけ水田が残り、後はほとんどミカン畑となってしまった。

現在、水田に植えられている稲の品種はコシヒカリとヒノヒカリである。これは佐賀県の奨励品種と言うことで売値がいいらしい。「水田の広さは一人4反と言っても、あんたたちはわからんやろう、40アール。」と息子さんが言った。トラクターは最低100万はするので、4人ぐらいで共有しているところもあるということだった。

取れた作物はどこを通しているのかというと、七山村、浜玉町を合わせた東松浦郡東部農協を通じてだそうだ。ちなみに草場さんのところで取れたミカンは、農協を通さず直接小売商に売っている。しかし、農協を通さないからといって、必ずしも利がいいかというとそうでもないようだった。

狩川地区は1213軒が専業農家で、後は兼業農家や農業以外の仕事に携わっている人である。

農業に携わる方の年齢を見ていくと、40歳代以上の方がほとんどで、30代の方が5,6人に、20代ともなれば農業に携わっている人はいない、という状況だ。そのかわり20代で家を出た人は5軒、 7,8人にものぼる。武一さんの息子さん(といっても60歳だが)も、後継者不足が問題だと言っていた。

オレンジの輸入自由化やミカンのとれ過ぎによる価格の低迷、村道、農道を作るのに、各家から負担金としてかなりの額徴収されるなど、農業経営の苦しさも理由の1つとして挙げられるだろう。ちなみに草場さんの家の昨年の儲けは、まあまあだったそうだ。

ここまで書いてくると狩川地区に田んぼとミカン畑一色しかないと思われるかもしれないが、実はそうではない。キューイを栽培していたり、林業を専門にやっていたりする方もいるのだ。

狩川で農業を営んでいる人はほとんど山林を持っているが、その多くの人が植林をするだけで、木を売って稼ぎを得る人はいないに等しい。加茂勤爾さんだけが農業をしながら自分で木を処分して利益を得ている人だ。むろん専門ではない。専門にやっているのは吉岡功さん。前述した水害で被害を受け、家の場所を移した4軒の中の1軒である。

狩川に来る途中で銃声のような音ことが何回も聞こえたことを思い出し聞いてみると、その音は爆音機の音で、電気で火花を散らし、ガスを爆発させて音を出し、作物を猿や鳥から守るのだそうだ。銃の空砲とは違うらしい。しかし、この辺は実際に狩猟地域でもあり、狩猟期間とは別に、有害動物、主にイノシシの駆除機関というものも設けているそうだ。

お話をうかがっている途中に、息子さんの奥さんがおそらCCLemonと思われる微炭酸飲料と丸ボーロを土間に持ってきて下さった。奥さんは「役所の人が何か聞きに来たかと思った。」と言い、奥へと消えていった。

話はこの辺から生活全般に移っていく。服部先生から事前に聞いていた区長さんについてであるが、この辺では区長さんはほとんど4445歳で、いちばんの上の方でも55歳であった。

酒屋とかに人が集まったりするのかと聞いてみると、「嫁さんをもらうまでは行っていたが、最近は行かない。」と笑いながら言っていた。人が集まるところと言えばやはり公民館であった。昔は公民館のことてる青年倶楽部と言っていた。公民館の上流50メートルのところに境がある絶好のロケーションで、公民館で会合があったときなどは、酒屋に行って皆で酒を飲むこともあるという。

 

祭祀

その他、祭祀、屋号について話を伺った。狩川地区では白山神社に氏神様が祀ってあるということで、人々がよく訪れるところだ。祭りとしては、春、秋の彼岸祭り、 12月の百手(モモテ)祭り、豊作、家内安全を願う夏祈祷などがある。

屋号

屋号についても聞いてみた。以下の通りである。

中村均……新屋(しんや)

中村金一……高石垣(たかいしがき)

中村俊一……バンバ

田中仁煕……田中本屋(ほんや)

田中良徳……田中新屋(しんや)

なぜこのように言われているかについては、よく分からなかった。

 

最後に、住みやすいですかと聞いてみた。「交通の便は悪いけれど住みやすいよ。昔から『住めば都』と言うでしょうが。」という答えだった。なんとなく嬉しかった。

お昼時にかかりそうだったので、また出直してきましょうかと言った私たちを、玄関先で待たせてくれた草場武一さん、農作業から帰ってきてすぐにもかかわらず、快くお話を聞かせて下さった息子さん、そしてCCLemonとマルボーロを出してくれた奥さんに感謝しつつ、草場さんの家を後にした。

まだ時間が少しあったので、中村嘉吉さんの家を訪れた。ここでは、 34つのしこ名が集まった。あとめぼしい情報は新屋と本屋についてだった。予想通り新屋は本家から家が分かれたということだった。

あとは、昔切り倒した木を牛を使って、山から降ろすことを専門の仕事にしていた人がいたこと。浜玉は馬、七山村は牛が物の輸送手段だ、ということである。七山全体で8人が兵隊にとられたというようなことを聞くことができた。

調査を終了し、鮎返まで降りてきて、「鮎の里」という店に入った。心地よい疲労と空腹感のせいか、そこで食べたチーズケーキは格別にうまいものであった。終わり。

 

田畑

小技狩川の内に

アサバタケ(麻畑)

稗田

タクゾウバタケ(タクゾウ畑)

キョウヅカ

マエダバル(前田原)

ウチコシ

トウゲシタ(峠下)

屋号

中村均……新屋(しんや)

中村金一……高石垣(たかいしがき)

中村俊一……バンバ

田中仁煕……田中本屋(ほんや)

田中良徳……田中新屋(しんや)

 

祭祀

・春、秋の彼岸祭り……氏神様を祀る。

・夏祈祷……豊作、家内安全を願う。

・百手祭り……12

使用している用水の名前

 なし

昔の配水の慣行、約束事

なし

用水源

用水源というよりも単に水源として狩川川。

共有している他の村

 なし

昔の水争いの有無

 なし

 

話を聞かせてくださった方

 草場武一さん 87歳 明治43年生まれ

 その息子さん 60歳 昭和12年生まれ

 中村嘉吉さん 80歳 大正6年生まれ

 



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