【東松浦郡七山村岩屋の下】

歴史と異文化理解A 現地調査レポート

1LA97258 宮島伸一郎

1LA97265 森  義和

調査期日 712

調査協力者

竹下仁孝(マサタカ)さん 昭和137月生まれ

 

七山村小字岩屋の下周辺のしこ名一覧

・ヒザコ(日ザコ)

・タテイシ(立石)

・コシチ

・オオニシ(大西)

・コダ(小田)

弁当を広げると田んぼが埋まってしまうような小さな田んぼが集まっていた。

・ヤボタ(ヤボ田)

藪のように荒れた田んぼが多かった。

・ウドノマエ(宇土ノ前)

宇土は多くの地名に残っているが意味はよく分からない。

・イワヤ(岩屋)

岩屋の下より山の上方にある。この岩屋より下にあるので岩屋の下という地名がついた。

・イケバ

・イワヤノウシロ(岩屋の後)

・ヒトギレ(人切れ)

昔、ここで誰かが人を切った。または個々より山の情報には人がいないことにより名付けられた。

・ブケダロ

全く意味不明。

・クロシ(黒石)

この地からは黒い石ばかりが出たから黒石。

・タオ

・コーラ

・ヤナギノウド(柳の宇土)……小字名

・コヤシキ(小屋敷)

・オオヤシキ(大屋敷)

・ヨシャクダ(用尺田)

・ナガゼマ

・カミ()

・カミノシタ(上の下)

              (カミ)よりも下方にあるから。

◎七山村小字岩屋ノ下のうちの屋号

・ヒラ() 山口留雄さん宅

・パズル

村のはずれの方にあるからかもしれない。(山口義蔵さん宅)

・セド 竹下仁孝さん宅

・セドビラ 瀬戸学さん宅

◎七山村小字岩屋の下 の内の井手

水路を井手と呼んだ。稲作から果樹栽培に変わるにつれて使用されなくなり、道路が広くなるにつれて姿を消した。

・コヤシキイデ(小屋敷井手)

現在も使用している。

・ヨシャクイデ(用尺井手)

現在も使用している

・コダイデ

・カクレイデ

・タオイデ

・オオニシイデ

・ウドイデ

◎七山村小字岩屋ノ下のうちの入会地

・共同園がある。

・キクダにあり、入谷地を分割したが現在は瀬戸さんが所有している。

 

祭祀について

・ヤブササマ(矢房様)

山口隆雄さん、山口留男さん、山口福治さん、山口一利さん宅4軒により信仰されていて、山口一利さん宅の裏に祠がある。

・大日様、庚申様

牛の神と木の神が祀ってある。

・岩屋宮

岩屋の後地区にあり、石川県白山地区のお宮である。

・祇園様

毎年715日に祭りが行われる。

※現在では下門にある白山神社に集められ祀ってある。

白山神社

昔は早馬神社と言われた。現在の仁部川も昔は早馬川と呼ばれていた。その昔、この地までは早馬できた使者も、ここより山奥へ行くには歩いていくしかない、と言うことによる。

 

村を歩いているときに右図のようなもので、竹で作れていて、道端に立てるものたくさん見かけた。竹下さんの話によると、“鬼の目ん玉”と呼ばれるもので、村の魔除けの役をしている。昔は子供たちが楽しみながら作っていたが、今では大人が作っている。

毎年17日に“ホンゲンギョ”と呼ばれる鬼火焚き(どんど焼き)が行われる。正月から17日までは竹を燃やしてはいけなかった。

 

岩屋の下周辺の農業

岩屋ノ下あたりでは、現在果樹栽培が中心になされている。ミカンが中心である。この岩谷ノ下は、山道の途中にある集落で、ミカン作りに適した段々の地形となっている。しかし、今見るとミカン作りに適しているように思える山の斜面も、やはり以前は田んぼとして使われることが多かったらしい。詳しく言うと、道路を挟み上側が畑作地帯で、下側が稲作中心地帯であった。どう考えても稲作に向いているとは言えない地形ではあるのだが、棚のように小さな田んぼを段々に積み重ねる棚田というやり方で稲作が行われできた。小さな規模の田んぼが多い様子は、「コダ」という字に表されている。

しかし、昭和356年頃、果樹園ブームが起こり、政府の減反政策とは違うが、儲けを考え、自主的に田畑を果樹園に変えるのが流行した。そして、この辺はミカン畑に変わったのだが、段々畑の形状は、昔の棚田の様相を未だ残している。また、この辺のミカン作りは、温州ミカン中心のもので、味のほうもなかなかでした。

肥料については、昔は草を刈って埋め込む刈敷のやり方だったらしいが、かなり以前から、化学肥料を使い始めたそうだ。この影響として、労働負担は緩和されたという意見があるが、ミカンの味が落ちた、と竹下さんは言う。また、刈敷から草成栽培草を生やしたまま育てるやり方に変化したらしいが、最近では薬剤、摘果、ミカンの間引きを行うやり方をしている。僕ら2人は、未成長のミカンが落ちていたのを見て、海風が落としていったのか、と思ったら、実はこの摘果のせいらしい。

最後に、この村のこれからについては、意外に明るい展望がうかがえた。ハウスミカンやハウス栽培の花など高額で売れる作物に力を入れているものもあり、村全体が比較的裕福だと言え、後継者も増えたらしい。また、車も1軒につき3台ほどもあるらしい。町の景気が回復しないうちは、この村の発展が見込める、と竹下さんも豪語する。

課題としては、この村は市街地に遠く会社勤めがしにくいいので、人口は減り、お嫁さん探しが大変になることが挙げられる。また、このあたりの地形はかなり複雑で、機械化した現在でも、面積の割に少し労働力が入るところも不安なところである。

 

一日の行動記録、感想

午前中、バスを降りて、目的地に向かったが、岩屋の下は山の中腹辺りだったので、着くのに少し時間がかかった。岩ノ下の方々は、雨天にもかかわらず、働き者ばかりで、お邪魔する予定の竹下さんも果樹園に出ているらしく、不在であった。その間、岩屋ノ下の奥の方まで足を運び、下調べを行っていると、「鬼の目ん玉」だと後でわかった奇妙な棒状の物体が、何箇所かに立っているのに気がついたりして、新鮮な歴史的遺産に出会うことができた。あのことから、やはり歴史の勉強には知識だけでなく実地調査も必要だと感じた。

結局、お昼頃に竹下さん宅にお邪魔したのだが、昼食時にもかからわず、竹下さんは快く僕らを迎えてくれて、2時間近く僕らのために話をしてくださった。竹下さんは、口調もはっきりしていてさばけた方であって、かなりの物知りだったので、 十分過ぎるほど字など、他にも様々なことを教えていただいた。これだけ教えていただいたのに、外の人に同じことを聞き直しに行くのも失礼と思い、この後岩屋ノ下を後にした。

この後、村の中心部に出て、物産展などに出向き、七山村の活気を肌で感じることができた。これらのことを今後の人生の参考にしたい。

 



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