【東松浦郡七山村古村】

歴史と異文化理解A  現地調査レポート

1LT97064 塩谷和幸

1LT97118 畑島優子

712()

830分出発

 2時間も走らないうちに山奥へと入ってきた。なかなか我々の目的地古村まで着かない。それもそのはず。バスがなかなか進まない。バスの運転手と先生らしき人物が地図を片手にああだこうだと言い合っている。分かれ道にさしかかる度に停止し、Uターンしたりもする。初めは笑って見ていられたが、その笑いはやがて怒りへと変化していった。あまりにも進まないバスに、ついには不安すら覚えた。しかし、運転手の判断のおかげで1130分頃、古村に到着した。

 まだ昼食まで時間がある。怠け者のぼくは無論アポイントメントなどとっておらず、とりあえず区長さんである中島隆雄さんのお宅を訪ねることにした。その途中怪しげな二人組と遭遇した。年も自分たちと同じ位の男性二人である。もしかすると彼らも古村を調査しているのだろうか。いやそんなはずはない。さっきバスを降りたのは我々だけの筈である。どうみても我々と同じように調査をしているようにしか見えなかったが、たいして気にもとめず中島さん宅を目指した。

 生憎家にいたのは奥さんただ一人だけで、しかも昼食の準備をしているところだった。あまり年をとっているようにも見えなかったが、一応しこ名のことについて尋ねてみた。

「そういうことは私には分からないねえ。」

とあっさり言われてしまった。しかし話を聞くと面白いことが分かった。どうも区長さんは大学生に古老の紹介を頼まれたらしく、今日がその日だということらしい。察するに、さっきの二人組のことだろう。どうやら彼らも古村の調査をしているらしい。奥さんはその家を我々にも教えて下さったが、例の二人組とかちあうと厄介なので、別の家を訪ねることにした。奥さんもしこ名について全く無知なのではないだろうが忙しいのだろう。

 中島さんのお宅は古村地区17軒の家の中で最も下に位置している。我々はすぐ上の家を訪ねた。

「ごめんくださーい」

「……」

返事がない。留守のようだ。

 さらに奥の家を訪ねる。そこで例の二人組が出現し、我々とすれ違った。ドアを開け声をかけてみる。案の定、返事はなくここも留守のようだ。おそらまあの二人組もさっきここの家を訪ねたということは容易に察することが出来た。

 正午まで時間が無い。何としても昼食までに1軒の家でいいからアポイントメントをとっておきたい。ここが午前の最後だと息巻いてドアを開ける。この辺りの家にはチャイムというものがない。声をかけると返事があった。中から出た来たのは女性(推定年齢56)だった。しこ名について聞いてみる。

「あんた、そげなもん役場に行けば分かるわねえ」

来た。マニュアル通りだった。ここでひるんではいけない。何とか説明してみたが分かってもらえない。相手も譲らないので

「役場は休みなのでお願いします」

と言うとついに観念!?したのか、昼食の後で話をきかせて頂く約束をとりつけた。時間は1時前とのことで、まだ50分近く時間があるので、こちらも昼食をとることにした。

 外はまだ雨が降っているのでバス停の待合室で食事をすることにした。待合室は公民館とつながっている。待合室の奥にはなぜか30cmぐらいの仏像が4,5体安置されている。その中央にはドカンと仏像の写真が1枚置かれている。なぜ実物ではなくて写真が、しかも他の仏像をさしおいて中央に置いてあるのかさっぱり分からない。何かいわくつきのものなのだろうか。

 そうしているうちに1250分になり、例の家を訪ねることにした。玄関の中ではご主人の中島肇さんが迎えてくださった。しこ名について調査していることを告げると、いろいろしこ名を教えて下さった。数は5個と少なかったが、何でも聞くところによると、古村にはあまり多くのしこ名が存在しないらしい。忘れてしまったものもあるらしい。博多の方には江戸時代の古戦場の伝承に基づいたしこ名が数多く存在するそうだ。さらに目印になる岩や橋などに関するしこ名も聞いてみたが特別な呼び名はないという。続けて水利や祭祀などのことについてもお聞きしたが、このことについては後述する。

 奥さんもいろいろしこ名を知っているらしく、ケヤノキ、ツジタ、ヤブタ、ニシノカワ……とあげてくださった。ヤブタやニシノカワは小字の名前であり、しこ名ではない。ということから考えてどうやらこの方は小字としこ名を混同しているらしい。これであの時奥さんが我々に強くすすめた理由が理解できた。話をうかがうこと1時間、お礼を言ってその場を辞した。

 これで気をよくした我々はさらに次の家を訪ねた。先ほど帰る際にお年寄りを教えてもらっていたのである。そのお家を目指す。歩くこと数分、中島学さん宅に着いた。ここのおじいちゃんである中島照雄さんが我々のお目当てだ。82歳という高齢。古村の中では男性で一番、全体でも2番目のお年寄りということだ。それにも関わらず言葉も体もはっきりとしておられ、とてもお若く見えた。とりわけ小さい地図のこれまた小さい文字を老眼鏡も使わずに読まれる姿が印象的だった。しかし、記憶の方は今ひとつと本人はおっしゃっておられたが、いろいろとお話が聞けた。ここでは田畑のしこ名ではなく、小字自体についてのしこ名を多く聞けた。

 また1時間ほど話を伺い、家を後にした。まだ迎えのバスの時間まで30分以上あったので、もう1軒訪ねることにした。しかし、どの家も仕事中とあってお話をうかがうことはできなかった。そしてこれが最後と思って訪ねた家がおかしなことが起こった。中に入るといきなり奇妙な質問を受けた。

「あなたが区長さんの紹介で来られたのですか?

「えっ」と思わず首をかしげた。まさにこの家が最初にたずねた区長さんの奥さんの話に出ていた家だった。もしやあの二人組は約束をすっぽかしたのであろうか。これはラッキーとばかりに話をうかがったのだか、相手もさんざん待たされていたとあってご機嫌斜めというご様子であった。我々としてもバスまでの時間が残り僅かとあって詳しいお話は聞くことが出来なかったのが残念である。それでも少なからずしこ名を聞くことが出来た。話の感じからしてしこ名にとても詳しそうだっただけに、余計に残念であった。

 330分。降りた地点に戻るとなぜかあの二人組がいた。一体彼らはどこで何をしていたのであろうか。我々は帰途についた。

 

祭祀について

 古村の氏神は仁部というところにある白山神社。古村に限らず東木浦の氏神であるという。

 

待合室の仏像について

 実はこの仏像はたいへんなものであるというのが分かった。写真の仏像は平安時代のお釈迦様の像だそうだ。かなり昔(古村の方たちも伝え聞いた話だそうだか)、今のテラノウエ(寺ノ上)というしこ名で呼ばれている場所にお寺があり、そのお寺にこの仏像があったそうだ。お寺がなくなり、仏像は二転、三転と場所を変えてバスの待合所に落ち着いていた。が今から3,4年前に県がそんな貴重な仏像を置いておいて盗まれでもしたら大変だというとで持って行ってしまったということである。現在その仏像は県の文化会館にあり、年に2回春と秋の彼岸の時だけ春祭りと秋祭りのために持ち出されるとのことだ。そのため写真が置かれているとのことだった次第である。何とも味気ない話だが、そんな物騒なことが起こるとも思えない。県の偽善ぶった魂胆が見え隠れする。でもこの仏像のおかげで古村という地を皆さん誇りに思っていらっしゃるという。

 

水利について

 水利について大部分の家が横井戸からの水を使っているとのことであった。水争いはないものと思われる。

 旱魃の際、まだ2月の頃は危機感もなく普通に使っていたが、45月と月がたつにつれて徐々に苦しくなるも、何とか乗り切ったそうだ。特に犠牲田などはなかったという話であった。

 このところ台風、集中豪雨の影響についてもあわせてお聞きしたが、目立った被害はないとのこと。

 

その他

 村の範囲についても聞いてみたが、きちんとした範囲という概念はなく、この辺りを古村と呼んでいるらしく、よく分からなかった。

 屋号については単純にカシラ、マンナカ、ムカイ、カワギワ、タニギワ、シタ(シモ)などと呼び合っている。

 主な作物はミカンが中心。昔はミカン100%であったが、最近ではお茶やキュウリ(ハウス)などをつくるところもある。

 村の植林も盛んで県と住民が半分ずつ所有している。しかし、手入れは住民任せだという。(分集制)

 杉を焼いてその後で蕎麦や小豆をつくることもある。

 ホタルも昔はよく見かけたが、農薬や肥料のせいで最近はかなり上流まで行かないといないらしい。

 入会地のようなもはなかったらしいが。

 田は1期作。

 

お話を伺った方

 中島肇さん 67

 中島照雄さん 82歳 大正4年生まれ

 吉村一俊さん 63歳 昭和8年生まれ

 

しこ名一覧

田畑

○小字古村のうちに

 キヤノキ

 タロウバタケ(太郎畑)

 ノウコツドウ(納骨堂)、またはマルクマ(丸熊)ともいう。

 テラノウエ(寺上)

 イワナノモト(岩名元)

  ツジタ(辻田)

 ツジタノカゲ

○小字博多のうちに

 ユミオリ

 マトイシ

 ゴウシギリ

小字

 向塩顔→向正座(ムカイショウザ)

 ■坂向→浦田(ウラタ)

  西ノ川→西ノコ(ニシノコ)

 高辻→イモンヘタ

 野郭()→エノキザコ



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