【東松浦郡七山村松坂・林ノ上】 歴史と異文化理解A 現地調査レポート
1LA97067 小倉愛子 1LA97100 高良聡美 しこ名一覧
話をお伺いした方 松坂 吉原保喜さん、吉原寛慶さん、吉原正人さん、吉原春海さん 林ノ上 富岡龍太郎さん、富岡英治さん、富岡国広さん、富岡秀次さん、富岡敏行さん、 富岡恒夫さん、富岡岩雄さん、富岡格治さん、富岡正治さん 林ノ上は、小字を使って呼び合うことが多い。
<屋号> 松坂の地図アリ。「かしら」「すぎの木」「つつみ」の位置を示す(地図省略:入力者)。 つつみ(溜池) 以前は水があったが今は水が少なくなったため、ツツミノウエはなくなっている。今は杉林になっている。 林ノ上の地図アリ。「宮前」「かしら」「おっく」「たかいしがき」「したなかだ」「なかだ」「たんなか」の位置を示す(地図省略:入力者)。
特に屋号を持たない家も、向かいの家のことを「むかえ」とお互いに呼び合う。建物の位置が変わっても屋号は変わらない。
<古道> 林ノ上 特に今と変わっていない。舗装されただけ。車が通行できるように道を一部広げた。橋は昔から林ノ上橋が一本あるだけだった。別名は無い。林ノ上の真中に「シュウジンザカ」と呼ばれる坂ある。今はシュウジはないが、昔、この阪でシュウジを分けていたようである。 田畑の道は今と同じだが、山奥にある田畑は今はもう森林になったので、山奥の道は使用されていない。山奥の田畑へ行くには4〜 5日かかるので、農作業の時期は、田畑の近くにある小屋で1〜2ヶ月生活していた。 松坂 「杉の木」の下を通って馬川まで行くための山道が1本だけあった。ひどい山道だったのでとても時間もかかり怖かった。食料は松坂の中で足りていたらしく、主にこの道は馬川の西通寺への参拝のために使用されていた。松坂の中にある現在ある舗装された道は、 20年前ほどに作られたものである。
<水利と水利慣行> 林ノ上 林の上は山のすぐそばにあるので、山の中には貯えられている水で十分生活用水は足りていた。各戸に井戸があり、飲料水は井戸から上げていた。 水路を作るということはなく、山からの水や、 小馬ヶ倉にある「ハタノスダニ」や、「ニタオダニ」「ニシゴンタニ」の3つの谷からの水を利用していた。水が元から流れていたところへから田を作ったので、水の取り入れ口を作っただけでよかった。取り入れ口には名前などはない。 水利権については厳しい取り決めがされていたが、今はパイプなどを使って、それぞれの田畑に運ばれる水の量が決まったので、以前ほどは揉めごとは起こらない。 1994年の大干ばつの影響も、山の水が豊富であったので受けなかった。 松坂 松坂も山のそばに位置しているので山の水を利用し、各戸に井戸があり、飲料水として利用されていたことは林の上と同じである。 松坂には一つだけ「ツツミ」という呼ばれる溜池があり、「ツツミノシタ」と「ツツミノウエ」と「ヒラタ」の3つの田が、このツツミから水を取り入れていた。今年はツツミにはたくさん水が蓄えられているが、ずっとツツミの水は少ないままだったので、「ツツミノウエ」は現在では杉林になっており、「ヒラタ」は昔から「ツツミ」だけから水を取り入れていたのではなく、山からの水を利用していたので、今は「ツツミノシタ」と「ヒラタ」の2枚分の水の溜池として利用されている。 「ツツミ」の水を生活用水として利用していた家が以前は1軒だけあったが、今はなくなってしまった。 1994年の大干ばつの影響も受けなかった。各戸にある井戸は今でも生活用水として利用されている。 水利権についての取り決めというはっきりとしたものはなかった。自分のいいように水をとってはいけない。他の人のことも考えなければならないという漠然としたものが人々の頭の中にある程度であった。しかし、水が豊富にあるので争いは全く起こらなかった。 |