【東松浦郡七山村博多屋敷】

歴史と異文化理解A 現地調査レポート

1LA97064 大原誠司

1LA97244 林 和之

 

バスを降りたところから博多までは、ずっと上り坂にあった。その道はわりと広く、きれいに舗装された道であった。この道でやはり最も目立つのが茶畑である。なかにはモノレールのようなものがついているものもあった。水田もそこには見られた。外、菊の畑らしいものや、ビニールハウスも見られた。

バスを降りたところから20分ほど行ったところで、一人のおじさんがいたので、その人にここが博多になるのかを尋ねると、まだここは古村と……、博多の部落まではあと23分と言うことだった。しかし、あの数字は車でのことであり、徒歩であることを確認すると、 7 8分というふうに訂正された。これもいくぶん短めの数字ではあった。

またそこから10分ほど行ったところで、道が2つに分かれていたので、地図を取り出して確認しようとしていると、 1人の郵便配達員が通りかかったので、博多への道はどちらが聞いてみると、「博多屋敷ですか」と聞かれた。はいと答えると道を教えてくれたが、もらった地図にも地形図にも住宅地図にも博多としか書かれていなかったので、少し不思議に思った。結局40分ほど歩いて、博多の部落までついた。

10戸たらずの部落である。まず一回りしてみて、目についたのはお茶工場であった。また、公民館もあった。自分たちはまず道路に面していて、わりと入りやすかった家を選んでみたが、そこの人はあまり詳しくなく、代わりに前の区長だったと言う人を紹介してくれた。そこで、そのお宅を訪ねてみた。

その人は山崎繁久さんといい、昭和18年の生まれであった。しこ名について聞いてみて、もらった地図と住宅地図を見せた。しかし、このあたりでは田や畑の一つ一つにしこ名が付いていて、この地図では小さすぎて分からないと言われた。また、そういった名前は自分の行っている田畑については分かるが、それ以外はあまり知らないらしく、しかもその田畑は博多以外のところが多かった。とにかく地図が小さいということで、国勢調査用のもらった地図より、用紙自体もずっと大きく詳しいのを持ってきてくれて、それで説明してくれた。

結局、博多の内外を含めて、キノウエ、ササント、アカダツ、ヤマグチ、フジノウラ、ヒラノ、ユミオリ、マツタロウといったしこ名を聞くことができた。しかし、博多のあだ名はもらった地図にはあまり落とせなかった。

そして、そういったしこ名を本当に詳しく調べたいのなら、そのような詳しい地図を用意して、公民館に博多の人間を全員集めて、昼は忙しいので夜に泊まりがけで来るように言われた。

次に、水利について聞いてみると、この辺りの川のダャード川、ニタダ川という名を教えてくれた。これは地図に落とせた(地図省略:入力者)

あと、この博多は古村と合わせて、東木浦区という1つの行政区画になっていることや、ここに来る途中で聞いた博多屋敷というのは、地図等ではすべて博多となっているが、福岡の博多と区別するために博多屋敷と言っているだけで、特に意味は無いであろうと言うことも聞けた。自分はどうもこの博多についてははっきりとこの博多であることが分かっている場合でも、博多屋敷と言う方が多いように感じた。

その後、隣の柳のことについても聞いてみたが、今は1戸も残っていなくて、昔柳にいた人で、岩村ミツハルという人が、柳の隣の中原(ナカバル)というところにいることが聞けた。ここまでは来るまでは数分だが、徒歩では30分以上かかるということだった。また、柳の人で8586歳で、唐津の方へ出て行った人もいるということだった。

最後にこの博多について詳しい人を尋ねると、今の区長代理である山崎マサヨシさんのお父さんの山崎一布さんという人教えてくれた。

結局、1230分頃に出たのだが、お昼時と重なってしまったので、少し反省しながら自分たちも昼食にした。後で考えてみると、聞き漏らしたことが結構多いのに気づいた。次はそれがないようにしようと思った。昼食とはいっても、弁当1つ食べるだけのものなので、 1240分頃には終わってしまった。

次を訪問するにはちょっと時間が悪いが、自分たちの所はかなり後ろの方にバスが行っていたところなので、逆に迎えは早いわけで、またバスのところまでかなり歩かなくてはならない。時間があまり残っていないということで、仕方なくその山崎一布さんの所へ行ってみた。

この山崎一布さんは、大正13年生まれの73歳、この人以外では80歳代の女性が1人いるが、その人は体調があまりよくなく、しこ名などについてもあまり詳しくないそうなので、この山崎さんが、博多の事実上の長老ということだった。

まず、博多のしこ名については、さっきの前区長さんと同様に、地図が小さいということを言われた。そして、やはり自分に関係のある田畑についてのしこ名は知っていても、それ以外はあまり知らないようだった。

ここで聞けたのは前の区長さんのところで聞いたものと重なるものもあるが、ヒラノ、ゴウシキツレ、ヤマグチ、タツノモト、ワサダ、ウラノハタケ、サコ、キノウエといったものを聞くことができた。ウラノハタケ、キノウエといったもののしこ名の由来は、その名の通りと言うことだったが、ゴウシキツレ、タツノモトといったものの由来は分からないそうだ。そして、こういうしこ名は、今でも自然に使われていて、関係のあるところならば、若い人でも知っているということが分かった。

地名については、この名称の博多というのに興味を持って調べに来る人がかなりいるということだった。その博多については、この名称の由来は不明だが、福岡の博多とほぼ同時期に成立したのではないか。そして、柳についても、博多と同時期に成立した名前ではないかということだった。もっとも、具体的にいつ頃かを聞いてみると、分からないという返事だったので、自分は、この話はあまりアテにならないように感じた。

その他の名前について聞いてみたが、まず山について地図にあるのもないだろうというのも含めて、タカオ山、フエガ岳、浮岳といったもの、橋について松浦橋、中島橋といったものだった。

目印となる大木や岩などについても聞いてみたが、博多にはそのようなものが特になく、従って特に名の付いたものはないということだった。

このあたりでは、山崎という姓が多いようなので、屋号についても聞いてみたが、屋号といったようなものはなく、単にそれぞれが自分の家を基準にして、前の、後ろのというふうに区別しているだけだということであった。

水利については、ゴウシギルに引いているのが、ゴウシ井手、ヤマグチに引いているのが、ヤマグチ英、といった名づけ方をしているということであった。

また、この水利は自然水利で、水利を巡ってもめたことは、生まれてから1度もないということである。干ばつの際にも、このように水には恵まれているので、たいした被害はなかったという話だった。ただし、去年の12月から今年にかけての出来がひどく、その時には雪が早く解けるように地道な努力をするしかなく、かなりの苦労があったそうだ。

この博多には、現在では8戸だが、 20年ちょっと前には11戸あったそうだ。

また、隣の柳も今は1戸も残っていないが、その頃には5戸あったということだ。そして、その柳には天満宮があり、そこにはもちろん誰もいないが、秋頃10月以降には人が戻ってきて祭りがあるということだった。

博多には寺が1つあるが、そこは観音様を祀ったものだそうだ。

この山崎一布さんのところには、水田とお茶とがほぼ同じくらいで12反ほどあり、後は山林があるそうだ。この山林には、実用的な意味と共に、財産としての価値もあって縁談のときなどには判断の材料の1つにもなったようだ。

この辺では、やはり茶畑が目立つが、やはりこの辺で畑と言うと大抵が茶畑ということだ。その他、キクなどの花、柿などもあるということだった。ここに途中で見かけたキク畑のこと思い出した。

昔は、自給のために麦や蕎麦を作っていたそうだ。このお茶には霧が良いと言うことで、この辺りの山の中腹から作っているそうだ。とはいっても、標高が高ければいいというものでもなく、450メートル位が上限ということだった。この博多あたりはだいたい400メートルほどのところにあるので、茶の栽培にはちょうどいい場所にあるということだ。お茶は昭和37年ごろから作り初めたもので、元々は嬉野から入ってきたものだということだ。

現在茶摘みは機械で行われているということだ。また、博多の部落の中では目立つ製茶工場は、農協で経営しているものだということだ。このお茶は去年から今年にかけての出来はかなりのものだったようだ。

水田については、現在良い田では18俵ほどとれ、わりと悪い田では1反あたり6俵ほどとれるということだった。この差は、やはり地力によるものや、標高の影響だということだ。また、昔は一反当たりせいぜい56俵ほどだったそうだ。この向上は、化学肥料などの影響が大きいそうだ。そして、昔はやはり牛での耕作が主に行われて、場所によっては馬も使われていたそうだ。戦時中は、馬を徴発されたこともあったそうだ。

圃場整備は年度事業で、生産には支障のないように行われているということだ。そして、この山崎一布さんが圃場整備などでも、しこ名は結構残るのではないかと予測している。

それ以外では、七山村ではワサビがとれるそうだ。これは、自生のものも俺栽培のものもあるが、今ではほとんどが栽培ということだ。また路地のものもハウス栽培のものもあるそうだ。

終戦そこそこの頃は、原野が多かったので、焼き畑をしたそうだ。しかしそこには植林をしたので、今では場所はわからないということだった。

そして、現在肉牛の生産も行っているそうだ。子牛を生ませて8から9ヶ月くらい育ててから市場に出すもの。その後は、業者が引き取って太らせて肉牛にする。

あと、これはある七山村では標高が高すぎるのでできないのだが、ミカンも栽培していたそうだ。しかし、外国からミカンが入ってきて、大きく減った。それでも、ハウスみかんで稼いでいる人もいるということだった。茶摘みの時期と、田植えの時期と重なるので、その時期は特に忙しいようだ。とはいっても、他の時期、いわゆる農閑期でも植林の手入れ、具体的には枝打ちや下刈りなどがあって、かなり忙しいそうだ。

結局、休みは盆と正月、あとは雨の日だけだそうだ。この日は、雨だったので、この山崎一布さんに出会えたことになる。晴れていれば、普段はわりと離れていて歩いて行くには少しきついところに行っているそうだ。そういう意味では、少しいいのではしたが、幸運だったと言える。

また、田植について、昔の手作業だと1日5畝も植えると限界だったそうだが、機械では14反ぐらいはできるということだ。

この辺りの氏神について聞いてみると、この博多を含んでいる東西木浦、古村2つがすべて白山神社であるということだった。

その他の生活について聞いてみた。まず、学校は、昔は七山村には小学校は4つあったのだが、今では統合されてしまっている。それで、幼稚園や小学校は送り迎えのバスが来ているそうだ。中学校は1時間ほどかかって歩いて行く。高校は主に唐津だが、山の下まで家庭の車で送ってもらってからバスに乗るか、またはバイクの免許を取るそうだ。

そして、買い出も、やはりモノが揃っている唐津まで行くことが多いそうだ。移動手段は、もちろん車である。

後継者については、村に残るのは跡取りぐらいのものだそうだ。それも、高校を卒業してすぐに戻ってくる人はあまりいないということだ。また、就職先としては、主に農協や役場になるそうだ。

この時点で、時間は、帰りのバスまで1時間と少しという状態だった。それで、柳のことを調べに中原まで行くのは断念せざるを得なかったので、博多でもう1人、 2番目の長老というような人を紹介してもらおうと思った。それで、この山崎一布さんと同級生という稗田さんという人を教えてもらった。それで、ここを出てすぐに稗田さんの家に行ってみたのだが、若い人が出てきただけで目的の人は留守だった。行った先を教えてもらおうとしたら、歩いてだとやはり片道30分以上はかかる所だそうなので、これも諦めなければならなかった。それで、柳に行っても誰かに会えるとは限らないし、中原は到底行けないということで、博多の残った家を全部あたってみることにした。

それで、まず見つけたおじさんに話を聞いてみた。この人は、昼から雨がやや小降りになったので、仕事に出かける準備をしているところだったそうだが、少し話を聞けた。まず、しこ名について聞いてみたが、この人が言うにはこの辺りのことについては、さっきの山崎一布さんや、稗田さんから聞いて知っているのみであって、その人たちが知らないことは自分の知らないということであった。それでもなんとか聞いてみると、昔、この七山村の道は56人ぐらいで作ったものらしいとか、現在のようにきれいに舗装されたのは昭和48年頃のことだったという話が聞けた。

また、この人は、今では米よりもお茶の方が主力になっているということであった。あと、山崎一布さんのところでもあった話だが、この博多では地名について調べるというと、どうしても博多という地名についてのものが多いようである。この人については、話が短かったこともあるが、名前と年齢を聞くのを忘れてしまった。

その後、一応他の博多の家にも行ってはみたのだが、留守だったり、もう誰も住んでいない家だったりして、たぶん博多の家は全部回ったと思うのだが、これ以上の話を聞きなかった。それで、これ以上調べられず、やはり柳についてはほとんど情報を得られなかったのだが、バスを待つところまで、誰かに会えることを願いつつ帰ることにした。

帰り道で、明らかに栽培されているものなのだが、目的はよくわからない朝顔があった。また、ビニールハウスがあったので少し中を覗いてみると、葉は枯れているが、実はしっかりなったキュウリがあった。こういうものも栽培しているのかと思った。

他に、田んぼを見ていると、明らかに整備された後と思えるすっきりしたものと、そうでないものとがあった。下り坂なので、行きよりは少し早く、30分程度で戻ることができた。そしてしばらく雨宿りをしてバスを待ち、帰る。これが、当日の行動記録と、教えてもらったことの報告。

 

感想

やはりもらった地図では少し小さすぎたと思った。それは、前の調査のところで国土調査用の大きな地図を見せてもらって痛感した。その地図で説明してもらったことは、とてももらったものや、住宅地図には落とせなかった。また、地図に載っている位の広いものは、そこで教えてもらった博多字の範囲の外になるものがほとんどだった。

次に、こういった山の中の村で、徒歩での調査は少し難しいように感じた。村の人の話の中での移動に関する時間は、全て車でのものだった。また、時間が足りなかった。もっとあれば、柳のことを調べるのに中原まで行くこともできたのだが。マニュアルは何度か読み返したのだが、話を聞いた後でもう一度見てみると、かなり聞き損なっている。雨は、それによって家にいた人もいたわけだから幸運だったろうと思う。やはり行ってみなければわからないこともあるように思った。

 

話を伺った方

 山崎繁久さん 54歳 昭和18年生まれ 農業(前区長)

山崎一布さん 73歳 大正13年生まれ 農業(長老)

 

しこ名一覧

田畑(菜畑も含む)

 キノウエ、ササント、ユミホリ、ゴウシギル、タツノモト、ウラノハタケ、サコ、

キノウエ

山 アカダツ、ツヤマグチ、フジノウチ、ヒラノ、マツタロウ

川 タカオ山、ゴケンヤ山、フエガ岳、ウキ岳

水利 ゴウシ井手、ヤマグチ井手

博多屋敷の水路は自然水利である。よって水争いはない。旱魃の際にも水に恵まれ被害はなかった。



戻る