【杵島郡有明町原田、坂田、上田野上】 現地調査レポート 前原 茂雄 調査日:1997年4月20日
<原田>*光武 正敏さん(昭和9年生) ・原田部落の天神さん(地図㋐参照,原本は佐賀県立図書館所蔵) 「てんじんまつり」毎年12月25日…原田部落全体の50軒ほどが参加。稲佐神社の神主が祝詞をあげ、昼食を食べて解散。(日は昔から変わらず) 「まめぎおん」7月25日…夏まつりを行う。その際には茶菓子などを天神まつりの当番(各班から1人ずつ→各年交代)が準備する。 ・地名「さんのかく」…意味不明。「三ノ角」 「のぞけ」…荒れ地で年貢が免除されていたため「除け」の意味。 ・地蔵さん…原田の4班の管理、掃除、花をあげる。 12月24日に地蔵まつりをする。(集まる家は図示)(日は昔から変わらず) *光武 正典さん(昭和3年11月生) ・原田地区の人はみんな稲佐神社の氏子。稲佐神社の氏子は白石町の人も多い。 *牛島 峰次さん(大正7年3月生) ・地名「のぞけ」の位置 家のすぐ周りではなく東側の田のこと。単なる荒れ地ではなく湿地に加えて畝が凹凸していて、水の入りが悪かった。
<坂田>*井上 保博さん(昭和22年生)、民子さん(昭和24年生) 坂田に耕地を持つ。 ・坂田神社の秋祭り 毎年10月19日、稲佐神社の神主が来て祝詞をあげる。坂田地区の数軒が氏子。 ・天満宮の秋祭り 毎年12月25日が祭り。(原田の天神さんとは別物。)氏子は坂田の一部。 ・地名「いちのかく」…意味不明。「一ノ角」か。 「ごのわい」…意味不明。「五ノ割」か。 *満上 ウメノさん(昭和7年1月2日生) ・沢原(そうば)大権現の祭り 毎年10月9日。(日は昔から変わらず。)氏子は坂田の一部。 坂田は沢原、坂田、天満宮の三社に氏子が分散。 山沿いはまとまっているが、山から離れると氏子圏は入り組む。 ・坂田の溝掃除 年に3回で原則として農家が全戸各家1人ずつ参加。日は不定期ながら雨などで溝が詰まった時に行う。 年3回のうち1回は農家に加えて農家でない家も各家1人ずつ出て、排水路(あくすい)の掃除に参加する。 ・坂田の「おだいしさん」(地図㋑参照) 昔はもう少し敷地が広かった。おまつりしているのは地図中橙色で着色している家。この辺りには巡礼が来ることになっているので、春と秋の彼岸の時には「おせったい」といって、のぼりを立てお茶を振る舞っている。 石仏の覆は最近作った。もともと満上さん宅の隣家の敷地にあった不動明王石仏も満上さん宅の石仏と一緒に覆に入れたが、隣家の人が病気になったので不動明王だけもとの隣家の敷地に戻すと病気が治った。 ・地名「十三」「十六」「十七(じゅうひち)」「十一」「ごのわい」「しのわい」「さんのわい」「一の角」「七(ひち)のわい」「八のわい」「九(く)のわい」「十(じゅう)のわい」 *満原 正彰さん(昭和12年2月生) 満原 田鶴子さん(昭和12年4月生) ・坂田の天満宮の祭りには神主は来ない。 ・坂田神社の秋祭りは10月19日だが準備は10月17日にする。 坂田神社は稲佐神社の直系で稲佐神社も同じ10月19日が祭りの日。 ・「十王さん(じゅうおうさん)」(地図㋒参照) お祭りは7月16日に「豆祇園(まめぎおん)」といって、地図中黄色で着色している家10軒でまつる。豆を煮て食べる。 *川ア 光正さん(大正7年生) ・地図の正龍寺は「正隆寺(しょうりゅうじ)」の誤り。 ・土地台帳を持っていたが、どこへいったか分からない。 ・ここらの田は大体1町歩がほとんど。ただし山に近くなると4〜5反になっている。 それぞれの田は3尺ほどの「角あぜ(かくあぜ)」によって仕切られていた。 田の大きさは山近く(今は家が建っている)が面積が小さく、山から離れると面積が大きくなる。 ・「ひゃあぶん」は川の名である。「しのわい」に「ひゃあぶん」の水が入るため「4のわい」のことを「ひゃあぶん」とも呼ぶ。 ・地名「大角(うがく)」 *野中 藤政さん(明治44年8月生) 満上 義治さん(大正9年5月生) ・坂田神社の祭礼 10月19日の祭りには、大正年間までは馬が駆け、流鏑馬も行われていた。 地図中(A)〜(B)の50m程の直線を走った。 カキツバタや牡丹の花を描いた木製の四面灯篭を各家(氏子)が作り、(A)〜(B)のあいだに立てて馬の走りを盛り上げた。 ・昔は坂田地区に6軒の共同風呂があった。 ・地図中㋓に昔(大正年間)「馬引きさん」という運送業者がたむろしていた。 また㋓を「馬入川(うまいれがわ)」と通称し、井上さんという人が馬を川に入れて体を洗い、焼いた鉄を馬の足の間接に通して治療していた。馬蹄も修理していた。 ・正隆寺の夏まつり 毎年7月17日に行われていた。住職が存在していた昭和34〜35年頃までは「鐘浮立(かねふりゅう)」といって、「四つ鐘」を踊りながら叩いて鳴らす風習があった。ずっと途絶えていたが、最近町の方で不定期の催し物に伝統行事として復活している。 ・正隆寺の「かいさん」 正隆寺には「かいさん」と呼ぶ仏像があり、持つと軽いものであるという。鎌倉期の仏像と地元では伝えている。 ・光福寺(こうふくじ)は浄土真宗だが、坂田に檀家が多くはない。 ・正隆寺の南側の墓地内に小さな「弥勒寺(みろくじ)」という寺(地図中㋔)があった。今も痕跡はある。 ・地図中(A)の付近には水車が2つあって、山側の田を潤していた。 ・坂田は水の少ない地区で、水利には大変困っていた。 ・現区長串山憲雄氏が10畳敷ほどの村の絵図面を持っている。(区長持ち回り) ・地名「六のまち」
<上田野上>*矢川 鶴市さん(明治35年生) ・地名「もみぢがふち」…田の周りに1本大きな紅葉の木があったため。 「とぎれ道(みち)」…まっすぐな道が北の山へぶつかって途切れて曲がっているから。 「森の内(もりのうち)」…昭和43〜44年頃まで森があった。 |