【多久市東多久町仁位所、別府三区地区】 Ll-lO IEC95038■ 岡本 由美 lEC95058■小出奈緒子 現地調査)1月13日〈仁位所〉○聞き取りの方法 妙海寺を訪問した。そこに、仁位所にお住まいの方が4人集まってくださった。仁位所全体の写った航空写真をもってきてくださったので、それと地図を見比べながらしこ名を聞いていった。所々は自動車で場所を案内してもらって、話を聞いた。昭和初期のころの地図も持ってきてくださった。 ○内容、成果 場所によっては、どうしてそのようなしこ名になったのかという「しこ名の由来」を教えてくださることもあった。まず、しこ名の田来についてまとめる。 北から、 「はちまんば」……昔、この辺りに、通称八幡(はちまん)様という神社があったので、八幡様の場所ということからら。 「はがしこやま」……現在、精米は機械で行うが、人力で行っていたころは、精米する際に、ある粉を必要とした。その粉の名が、「はがしこ」である。この辺りでは、この粉(はがしこ)がよく取れたから。 「おうぎだに」……文字通り、地形が扇のような形をしているから。 「うらのたに]…集落から見て山側、つまり裏の方にあるから。しかし、あえて 漢字をあてると、「浦の谷」であるらしい。 「だいもん」…昔、川は今のように整備されておらず、堤防などなく、絶えず氾濫の繰り返しなどで、川の流れ(川の道筋)が変化していた。もちろん、現在の川の位置と異なっていた。この辺りにちょうど川が通っていたものと考えられ、川岸に、元の道(山沿いの道)の入口があり、大きな鳥居(門)があったらしい。当時、人通りが多かったそうだ。 「なかがわら」……現在この地帯は水田と川であるが、昔の川の位置と現在の川の位置が異なるため、昔はちょうど別府川と仁位所川の間の位置にあたり、河原(かわら)であったと考えられる。川と川の真ん中にある河原という意味から。 「ほんじょうじとうげ」……宝蔵寺峠(ほうぞうじとうげ)がなまったもの。 仁位所(にいどころ)という地名にも由来があった。昔、二位という地位の人(二位の局)が住んでいたからだそうだ。『風土記』にも載っているらしい。 また、地名だけではなく、川にも正式な名前と異なる呼び名があった。地図上では仁位所川となっているところを、尾の尻川と呼ぶそうだ。そして、別府川がちょうど2つに枝別れするところを「ふたまた」と言うそうだ。 概して、仁位所は水が豊富であるらしい。現在、別府川・仁位所川・尾の尻下溜池などを利用している。主に、クリークで水を引くが、一部、井戸も使用する。旱魃の時、1994年は、新しい井戸を掘ったり、ポンプで水を引き上げたり、川を掘り下げたりした。昔は、新しい井戸を掘ったり、バケツで水を汲み上げたりした。現在に比べてかなり労力のいることであったらしい。今日の機械の発達で、旱魃による被害がかなり減り、対処がだいぶ簡単になったそうだ。 裏作のできる田(乾田)、できない田(湿田)が、かなり疎らに分布.しているらしい。乾田で、最高1反600キロ(10俵)穫れるそうだが、平均7・8俵くらいだそうだ。 水田が、約10町(10反=1町)あるなか、裏作はそのうちの20%行われている。うちわけは、麦類15%・飼料5%である。 圃場整備により、田ん中の形がけっこう変化したらしい。お話のなかで「この田ん中は昔、こんな形じゃなかった」とか、「ここの辺りは、昔は田ん中だったのだが」とよく言っていた。「いちのせ」や「どんまえ」がその例である。この辺りは、私たちも実際に見たのであるが、崖の多いところで、1つ1つの田ん中の面積が狭いように思えた。 @御協力者の氏名・生年 倉富文雄さん(昭和元年生まれ) 倉富初善さん(昭和5年生まれ) 宮本智昭さん(昭和30年生まれ) 古川菅子さん(昭和18年生まれ) 〈別府三区〉○聞き取りの方法 お訪ねした方の持っている地図と私たちの持っている地図を照らし合わせながら話をすすめていった。最初に訪問した2人は、職業が農家でなかったので、あまりご存じでなかった。だから古老を紹介していただいた。 その方には、地図上で指し示して教えていただいた。 ○内容・成果 別府三区は、最近住宅化が進み、団地が新築されたりして水田が減少しているらしい。そのせいもあって、しこ名がさがしにくかった。というか、しこ名であまり呼ばないそうだ。また、しこ名の由来もほとんど聞けなかった。 「西町(にしまち)」……別府川の西側に位置するから。 「横町(よこまち)」……別府川の横に位置するから。 「かわにしやしき」……別府川の西隣に位置するから。 「いばがしら」……「いばんたに」の上(北)の方に位置するから。 「とんのまつ」…昔、殿様行列がこの辺りを通る際の休憩所があって、殿様は松の木の下で休憩をしたということから。 仁位所で川に呼び名があったように、別府三区の川にも地元での呼び名があるものがあった。西郷川(さいこうがわ)のことを「にしごうがわ」と呼ぶそうだ。 別府三区も仁位所と同じく水が豊富であるらしい。別府川と西郷川から主に水を引く。旱魃のとき(昭和28年)は、機械が少なく、水上げポンプも稚拙だったので主に井戸を掘った。(なるだけ川の水がよいのであるが。) 圃場整備後は、電気で水を上げたり、道路や水ためタンクがつくられた。現在では、水がたまるように地面の下にタンクをつくっていて、水が循環するようにしている。昔は、川をその都度せき止めたりして水量の調節を行っていた。また、降水量の多いときなどは、川が氾濫しないように調節するのもかなり大変だったそうだ。 戦前、乾田では、6・7俵穫れた。現在の乾田では、9・10・11俵穫れるそうだ。山間部−山麓−平坦地の順に収穫高が増える。別府三区は、山麓にあたる。土地の質によって米の味が変わり、赤い粘土質の土地の米は味がいいそうだ。一方、山間部の砂っぽい土の米はおいしくないらしい。 昔は、稲を植えて、草取り(草抜き・草打ち)をしており、これはかなりの労力のいることだった。今では、農薬があるので1/10の労働ですむようになった。 @御協力者の氏名・生年 吉永恵さん(大正元年生まれ) 倉富さん(女性)(昭和8年生まれ) 松下さん(男性)(昭和15年生まれ) |