【多久市西多久町八久保・藤川内】 歴史と異文化理解A 現地調査レポート 1EC95103 堤 昭 1EC95195 鶴川和義 1EC95116 長田秀康 [八久保] 水利のあり方 ・八久保の水系 丸田溜池の水をマエダ(前田)に。 ホッタの水をヒガシノタニに入れた。 丸田溜池、ホッタの水権は八久保にあるが、ホッタは隣の部落のもの。 個人的な水争いは少しはあったが村同士の問題なかった。 ・1994年の水不足 八久保では大被害を受け、村の半分ぐらいの田では全く米がとれなかった。例年の1/3ぐらいの収穫しかなく、それぞれの家で自分の家で消費する分しかとれなかった。自分の家の分をとれない人も2人いた。 水対策としては2人ぐらい下の川からポンプで水を汲み上げたがほとんど効果はなかった。その他は対策もできないくらい水がなかった。 ・1つの田でも穂ができる所やできない所があったので、他の作物を作ることはできなかった。 ・昭和15年にも水不足が起こり、1994年と同じような被害を受けた。その時もポンプとかもない時代なので水不足対策はなかった。 ・昭和20年頃に大山の地下の明治佐賀炭鉱の害を受け、川の水位が下がった。その後炭鉱側から復旧活動をしてもらったが、今でもその影響が残っている。 ・入会山は周りの山ほとんど。 ・村の耕地 昔はすべて乾田。 ・戦前の米の収穫量 マエダ 1反当たり 8〜9俵 ヒガシタニ 1反当たり 8俵 キリジコロ 1反当たり 6〜7俵 カレキンモノ 1反当たり 5〜6俵 ・肥料 昔はチッ素、カリ、塩酸の肥料を自分たちで調合。今はこれらが配合されたものを買っている。 ・村の姿 昔と比べて良くなったのは道路だけで、その他はさびれていく一方。今後も明るい見通しはないだろう。 お話をして頂いた方 大崎康様 大正10年生まれ
[藤川内] 藤川内上、藤川内下と行政治は一応分かれているが、実際には1つの村落だったので区別せずにまとめます。
・水利のあり方 川より下の田は谷口溜池からの水を、川より上の田は城尾(じょうのお)溜池や吉ノ谷溜池の水を利用している。 谷口溜池の権利は藤川内だけのものだが、下の松本でも使っている。城尾溜池や吉ノ谷溜池はね藤川内だけで使っていて、その水は田だけではなく、ミカン畑にもポンプで水を汲み上げて利用している。谷口溜池の水は川を通って、それぞれの井手で田に入る。 ・水利権争いはなし。
・1994年の水不足 昔は明治佐賀鉱山の影響で地下水が出なくなったので、吉ノ谷に山を越えて水を運んだが、今は谷口溜池を改修してもらった。1994年は谷口溜池で責任者をきちんと決めて分配したので被害はほとんどなかった。 昭和28年の水被害では川の周りに水が氾濫して大被害を受けた。
・入会山は横峯山に少しと八久保の右から大山の下の間全部。
・村の耕地 昔の湿田 ……ヒラオグチ、ウチダ、ナカオグチ、ニシゴウの半分、ボウノウラとコイノウラの西半分 昔の乾田 ……カキノキダ、ヒラキダ、コヤマウラとその他全部 ・戦前の米の収穫量 ニシゴウ 1反当たり 8〜10俵 カキノキダ コイデ 1反当たり 6〜8俵 ハッタンダ 1反当たり 6俵 ウチダ 1反当たり 5〜6俵 しかし米の質はウチダが大変良く、国から表彰されている。 地図で見ると左(ニシゴウ側)が右側より1,2俵多くとれた。
・肥料 昔は田に東の山の草をひき、堆肥を入れ、農協から買ってきたチッ素、カリ、リン(旭化成)と自分たちで配合していれた。油カスを買って入れる人もいた。
・村の姿 昔は農家をしていて土地はもっているが耕作を他の人に任せている農家が10軒ぐらいある。兼業農家が増えた。
お話をして頂いた方 藤川清心様 大正7年生まれ 川浪政夫様 大正4年生まれ 野田陽道様 昭和27年生まれ
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