【多久市西多久町二重・北多久町東原】

歴史と異文化理解A 現地調査レポート

SU-12 1TE94548 一木伸司

1TE94582 白倉大輔

訪問先 佐賀県多久市西多久町二重

 

現地調査に当たって

 今回の現地調査にあたり私たちは二重村の友田さんにお話を伺おうと手紙を出していた。返信用の葉書がこなかったので、約束した日時に友田さんを訪問してみると、家には誰もいらっしゃらず、近くの二軒にも行ってみることにした。二重村には家が3軒しかない。しかし、いずれも留守で途方に暮れていたところ、少し離れた畑に人の姿が見えたので、行ってみて私たちの調査のことを話し、お願いしたところ、仕事の手を休められお話をしてくださった。後で分かったが友田さんは東京に行っておられ、そのため断りの葉書も来なかった。

 

お話をして下さった方

 二重隆男さん 昭和8320日生まれ

 

しこ名

 「しこ名」については、二重さんが「しこ名」をご存じでなかったり、範囲が分からないことがあったが、ある程度正確な範囲を示してもらった。

 二重村では水田一つ一つに「しこ名」は付いておらず、ある程度まとめて、この水田一帯は“〜”といったようになっていた。

 また「しこ名」には“くぼんまい”、“にしだ”のように二重村に隣接する村の名前が多く使われており、これは水田を取り囲むように点在しているので、農家からみた水田の方角にある村の名前を「しこ名」として呼んでいたためと思われる。アクセントについては特にはっきりとしたものはなかった。

 

村の水利のあり方

 二重村には二重溜池、旧丸田溜池の2つの溜池があり、それぞれの水の利用については以下のようになっている。

  二重溜池……駄地村で使用

  旧丸田溜池……駄地村が所有。駄地村と二重村で共有。

上のように二重村の水田にかかる水は旧丸田溜池から引水されていて、溜池の水は毎年6月の4,5日まで抜かないことになっている。ここ数年二重地区では地滑りが問題となっており、国と県で地滑りの対策調査と工事が行われている。そのため、旧丸田溜池からはポンプ(県から設置してもらったもの)を使って水を引き入れている。

 また、平成6年の旱魃はそれほどひどくなく、特別な対策は行われていない。

 

村の範囲

 村の範囲は地図上に赤線で記入(地図省略:入力者)。しかし、二重村と駄地村の堺はよく分からないということであった。共有山林は丸田溜池の上にある。

 

村の耕地

 圃場整備以前に、特に米がよく穫れるようなところ、逆にあまりとれない田ん中があったのかどうかを尋ねてみたが、場所による差はそれほどなかったとのことだった。

 また、戦前のことも聞いてみたが、戦前のことはよく分からないとのことだった。

 

村の姿の移り変わり

 前にも書いたとおり、二重さんには仕事の途中で話をしていただいたので、村の姿などについては聞くことができなかった。しかし、村を歩いてみた様子では昔は10軒程度の民家があったようだ。また、水田の外に牛舎があり30頭前後の肉牛の飼育が行われていた。

 

 

訪問先 佐賀県多久市北多久町東原

 

 午後1時に訪れた北多久町東原は家の戸数が10程で、現地に着いたときは訪問する予定の武富信一さんが留守で、また家の戸数が10に満たない所でどの家も留守であったので途方に暮れてしまった。そこへ武富さんの所へ遊びに来ているという方から、武富さんかこの近くで働いているということでその場所へ行った。

 武富さんは大正15年生まれで東原では年が一番多いということでいろいろ聞き出せると期待したが、仕事の合間ということと、なぜ手紙で自分の住所が分かったのが疑問だったらしく、口が重かった。しかし、生産組合長ということであると説明すると、納得してくれた。

 

しこ名

 まずしこ名のことを聞いてみたが、東原にはしこ名と言えるものがないと言われた。武富さん所有の田についてはキシタカというふうに呼んでいたが、となりの武富ケンイチさんの田については武富ケンイチさんの田ん中と呼んでいるということだった。

 東原というところは山の中で、田んぼが条里制でなく段々になっているためか、呼び名がないようであった。例として神埼郡のしこ名の地図を見てもらい、それに当たる名前があるか聞いてみたが、そういった呼び名はないということであった。しこ名として得られたのはキシタカとシイノキだけであった。

 

水利

村の水利のあり方についても聞いてみたが、水路の名前について特別な呼び方などないということである。1994年の大干魃についても困るようなことはなかった。それよりも東原は開発が進み、、田がなくなっていく方向にあるということである。

 

村の範囲

村の範囲についてもはっきりと分からないということで、東原と呼んでいるのは武富さん家の周り、そして所有の田がある辺りであるということである。

 

共有山林

村の共有山林についても聞いてみたが、集落の北側の森林は開発のため大きく伐採され、部落の人が所有しているものは少ないということであった。

 

村の姿の変わり方

 村の姿の変わり方なども聞いてみた。すると農業に対する興味を失っているようであった。東原は地図とは大きく変化していて、田のあったところに池やプールが出来たりして、村の人は空室などもあり、また新しい家なども建ったり、武富さんも農業とは別の仕事をしたり、田のあるところが埋め立てられたり工事が進行中であった。

 

 別の古老にも聞きたかったので他の家も訪問したが、ほとんど留守で、あと若い人しかいなかったのでどうすることもできなかった。そのことで武富さんに聞いてみたが、自分が最も古くからいるということで、若い人に聞いても知らないということであった。

 

お話をして下さった方 武富信一さん 大正15年生まれ



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