【多久市南多久町田柄・大野】

歴史と異文化理解A 現地調査レポート

材料工学科1TE94554 浦野孝一郎

1TE94597 永瀬 智崇

 

<最初に>

 服部さんのお宅を訪問したとき、日時共に変更はなかったのですけど、いらっしゃらなくて、それから何度か電話を掛けていると、やっとつながって「今日だったんですか? 忘れていました。」と言われました。更に手紙の受取人の佐吉さんとその奥さんしか家にいらっしゃらなくて、古老である佐吉さんのお父さんは出かけてしまっていて、いつ帰るのか全く分からないと言われました。そこで仕方なく佐吉さんにお話を聞きました。

 そしてお暇する際に、佐吉さんが「やっぱりおじいさんがいなかったので分からないところがあったから(しこ名)、後でゼンリンの地図をコピーしておじいさんに聞いて送ってあげるよ。」とおっしゃってくださいましたが、なかなか何の連絡もないまま、こちらから催促するわけにもいかず、このような形でレポートを提出するようになってしまいました。

 また、服部さんがいない間(2時間くらいの間)、何軒か訪問しようと思ったのですが、どこの家もいらっしゃらなくて、お話を聞くことができませんでした。

 また、自分たちは2年生であるため、箱崎で勉強中で他の講義のレポートの都合上、再調査などに行くことができませんでした。すみませんでした。

 

<田柄>

村の水利のあり方

 田柄で田んぼに用いられた水系は他村とは関係なく、田柄で単独である。そして、配分に際しての特別の水利慣行はなかった。それも、山からの湧水があったためである。そのため、過去にも水争いは特別にはなかった。

 また、1994年の大干魃に際して特別に行った水対策などはなかった。敢えてしたということは、川からのポンプアップくらいであった。それで十分であった。

 また、もし30年前にこのような大干魃があったとしたら、という質問に関しては、実際に30年ほど前くらいに大干魃があったそうで、その時には田んぼや畑などはどうすることもできず、自衛隊からの給水に頼って生活したそうである。

 

村の耕地

 良い田では78俵、悪い田では45俵ぐらいであったそうだが、それほど大きな差はなかったようである。また、地力等級という制度を用いていて、それぞれの田んぼが持っている能力を把握していて、田んぼの所有者の負担が平等になるようにしていた。また、戦前に使われていた肥料としては、硫酸アンモニアや、また過リン酸石灰を用いていたということであった。

 

お話をしてくださった方

 西山清太さん 大正11年生まれ

 

<大野>

村の水利のあり方

 大野も田柄と同じように、大野単独の水利であったそうである。また、配分についても特別な水利慣行はなく、水争いなどもなかったそうである。

 また、1994年の大干魃についても田柄と同じように川からのポンプアップくらいで、其他には特別には水対策などは行っていないということであった。

 また、もし30年前にこのような大干魃があったとしたらという質問に関しては、これについても田柄と同じように、どうすることもできなかっただろうと言われていた。

 

村の耕地

 全体的に大きな差はなかったが、良い田では8俵、悪い田では6俵ぐらいであったようである。また、戦前に使われていた肥料に関しては、はっきりとは分からないが干し草や糞便などであったと言われていた。

 

お話をしてくださった方

 服部佐吉さん 昭和24年生まれ

  *服部さん宅については前述したとおりです。

 



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