【多久市南多久町桐野地区】

歴史と異文化理解A 現地調査レポート

服部先生演習レポート

国史2年中井有人

宮田 匡

※調査の先日、牟田部方面の牟田国博様にお電話したところ調査が出来ないとのことで、当レポートは桐野方面に限らせて頂きます。

 

1 桐野について

 バスを降りて20分近く歩き、山を一つ越え、桐野の集落に出る。桐野は二つの山の間に挟まれた谷間にある集落である。村の間ではそのことから桐野集落を「表の谷(オモテンタイ)」、山一つ隔てた東側の谷を「裏の谷(ウランタイ)」と呼ぶ。

テキスト ボックス:   私たちは裏の谷から山を越えて桐野に入り、今回調査に協力して頂く北島八州男さんを訪ねる。当集落は何故か北島姓が多いようである。

 北島さんはご多忙であったにも関わらず、進んで調査に協力して下さり、軽トラックで色々な場所を案内して下さった。また、北島さんは稲作とミカン栽培を営んでおられ、農業について詳しいお話をして頂いた。

 

2 村の史跡について

 桐野は歴史的に重要な史跡が多くあり、北島さんに案内して頂いた。

・皇塔(オオヤケノトウ)

 聖武、桓武、平城の三天皇を祀っている。石を積み上げた塔が十数個建っている。作られたのは平安期であるが、明治期まで荒れるに任されていた。それまでそこは村の人々が集い酒を飲む場所であったらしい。したがって石はすべて崩れていたが、北島さんの先祖が石を再び積み上げたらしく、現在は整備されている。地元の人は「天皇さん」と呼ぶ。

・妙覚寺

 開祖は行基。村の西側の山の中腹にある。過去2回焼失しており、石が焼けているのがうかがえる。寺を司る人は法印さんと呼ばれ、城門と呼ばれる東の山に代々葬られている。中世には武装化したらしく、僧兵がたくさん立て籠もったらしい。

 盤若坊、椎無坊といった地名が残っており、それは当時の名残か?

江戸時代は多久の殿様の供養寺であった。多久の城主は妙覚寺の麓まで馬で来て、そこから石段を登ったという。そのため馬を繋いだ場所が馬つなぎ(マツナギ)という地名で残っている。村の祭りも行われ、120日には「二十日祭り」が行われる。鬼の絵を描き、それを的に矢を打つというもので厄払いとして行われる。また「おくじ」と呼ばれ、籤を引き一年の占いを一戸一戸行う行事もある。

・諫早塚

 妙覚寺のすぐ下にある塚。佐賀本藩の養子問題に関与した諫早茂行が一万石の没収を承け、それに対し桐野の百姓、武士が直訴運動を行ったが鎮圧され、首謀者は処刑された。

 

3 農業について

テキスト ボックス:   農業に欠かせないものは水であるが、桐野では水に対して様々な方作がとられている。

 桐野は山々に囲まれていることにより、山から湧き出す水が豊富にあったが、現在は果樹の栽培により木々が伐採され、湧き出す水もごく少量となっている。果樹の栽培は戦後になってからであり、水の取り方も変化していく。

 主な方法

@牟田部川のダムからパイプで引き上げる。

この方法は果樹のみに使用されており、スプリンクラーなどで使われる。

A溜池

 山からチョロチョロと出ている水は溜池に溜まり、そこから水を出す。当地では溜池を「堤(ツツミ)」と発音する。桐野には上堤(ウエンツツミ)と下堤(シタンツツミ)がある。この村では山に沿った水路を「タイゴ」という。

B地下水

使わないこともないが、かつての炭鉱の公害もあり、農業用水としては期待薄。

 

渇水について

 一昨年の渇水に対しては、回し水などで対応したらしい。牟田部の方から取ってきたらしい。

 

水争いについて

 現在では厳重な取り決めがあって全く争いはない。過去にも北島さんが体験したようなものはないらしい。しかし、昔にはやはりあったらしく、昨日の友もそれがもとで殺し合いになることもあったという。夜の内に水の流れを変えようと二人が同じようにして、鉢合わせとかいう話をして下さった。

 

入会山について

 そういうものは全く聞いたことがないらしい。

 

現在について

 北島さんは季節柄今はミカンのハウス栽培に力を入れている。ちょうどミカンの花が咲いている直にハウスで合わせていた。多角的な栽培を営んでいるようだ。減反政策後継者の話になると目を細められて、不安な様子がうかがえた。

 

3 しこ名について

 まず今回の調査は北島さん一人に対する聞き取りで行われたことを承知して頂きたい。北島さんより更に年配の、桐野の地理、歴史に詳しい方がいるとかで、話を伺う予定だったが、その日は土曜日で農協が休みということで面会できなかった。したがって今回の調査のしこ名は、北島さん一人の知る限りということである。

 しこ名といっても、田んぼに一つ一つ名があるというものはあまり聞き出せなく、役所にある小字に対し、村の人だけで通じる名前という地名を聞いた。

 小字 源太塚

 呼び名 ゲンタヅカ

 これは昔からの言い伝えがあり、今も昔も変わっていないようだ。昔、源太というめっぽう力の強い武者が住んでいた。それなら一つ力比べと、ある日一人の男が対決しに、源太の家を訪れた。ところが源太は留守で、源太の母親がいるだけだった。すると、その母親はいきなり鉄の棒を持ち出し、それをぐいと曲げて見せた。男は「母親がこんなに強いのなら源太という武者はよほど強いに違いないと思い逃げ出した。すると、源太が帰ってきて男を追いかけ、男を殺したという。

 勘太郎 カンタロウ

 源太塚同様古くから変わらない地名。何か由来があるのだろうが、北島さんはご存じでなかった。

 小字 呼び名

 大坪                  シチョウブンノチョウ

 上の園            カミノウエ

 中の園              コゾノ

 上ヶ原              イモゾノ

 百代                  シンブツ

 多峰                  タビノ

 鏡ヶ原              カガミノハラ

 盤若坊              シンナシボウ、オオクボ

 北野                  キタタニ

 金頭                  前側モンノマエ。モンノマエは妙覚寺に対する呼び名か?全国にも多数あるのでは?

 油田側ハジノキ ネンプツサン

 

油田                  センコウバシ 細い橋があるとか?

城門                  ハカドコ。城門は村の墓場である。妙覚寺の法印も代々ここに葬られる。

北島家の墓もここにある。この名前も頷けるのでは。

 向野                  ムカイヤマ

 園田                  シミズ

 打越                  ウランタニ

 扇田                  ヤクスサン。薬師寺から高僧が来たらしい。

 横平                  南側ハチリュウサン。八龍と書く。

 八反田              ハッタダ

 節句田              セクダ

 

4 終わりに

 今回の調査では本当に北島八州男さん一家に御世話になった。昼ご飯まで御馳走になり、さらに妙覚寺、皇塔、諫早塚、その他の田畑を軽トラックで案内して頂いた。このレポートの完成にあたって心からお礼申し上げたいと思う。



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