【多久市南多久町上田町、庄地区】 歴史と異文化理解A 現地調査レポート 佐賀平野の現地調査 月曜日2時限 国史学科2年1LT94172 山口るみ
<上田町(じょうだまち)>地元の人々が「上田町」と呼ぶ場所はもともと宿場町だった。豊臣秀吉が朝鮮出兵のため名護屋城に向かうために通ったといわれる唐津街道がそこを通っている。 現在約30戸。上田町5戸、柿木田5戸、境田7戸など。過疎化が進んでいる。 話を聞いた人の祖父などは魚をとり、馬で唐津街道を通って久留米まで運んでいた。
(しこ名) 田→ほとんど小字と同じ 水路→一つだけ「地蔵さん川」と呼ばれる水路があった。途中にお地蔵さんが祀ってあり、そのことからそう呼ばれる。 橋→特にしこ名なし。 昔はちゃんとした橋ではなく「飛び石」を敷いていただけだった。渡りやすいように石が逆円錐状に上が平たく下が尖っているものと、水が流れやすいように円錐状になっているものもあった。 呼ばれ方の例:柿木田のピンピン橋など。飛び石をピョンピョン渡ることから。 (水利状況) まわし水……川が流れてくる上の方向から順番に水を回す。ある人の分に水入れが終了したら次へ回すという形。そのため下流は水不足になり易い。 (その他) 今出川 @ 高く傾斜が大きい天山という山から流れてきており、すぐに水が出てくるという意味から今出川と呼ばれるようになったという説。 A 昔、村一番の力持ちと自負していた今出川こう衛門という人がいた。その人が、増水し、ねっぷくまきを起こしている川を止めてみせると言って挑戦したところ、ねっぷくまきに巻き込まれて溺れて流されてしまったということから、その名が付いたという説。 ねっぷくまき 川の水が激しい勢いでグルグル巻くように流れてくること。ねっぷくというのは、籾を干す時の筵で、大事にしまう時に巻いてなおす (近畿・中国・九州などで) しまう。収める。片づける。「広辞苑」による)。もともとはそのことをねっぷくまきという。
<庄>(しこ名) 田→ほとんど小字と同じ 牛津川近辺が湿田。その他は乾田。 湿田は60cm〜70cm堀り、パイプを通して排水している。 (水利状況) 上田町と同様にまわし水。下流のため不足になりやすいため、牛津川の方から汲み上げてかけている。 新しく出来た堀 もともとは5分の1ほどの水源地。この水源地は昭和14年大干魃のときに掘られた。区画整理の時につくられ、全長700m。3ヶ所に汲み上げポンプを設置。集会で2人ずつ当番を決め、手当を出す。自動ポンプなので電気代がかかる。一年で1反当たり3,000円より多い。それぞの田にはひねりコック式の蛇口が付いていて、水路からの水入れを調節。 (その他) 田の中に社が集まてある場所があった。 ・豊満社 ・印鑰社……印鑑の神様が祀ってある。文化13年に作られたもの。 ・その他
感想 上田町ではまず話を聞ける人の家を探すのに手間取り、調査が進まないのではないかと不安だった。話もこちらが聞いたことと、相手が話したこととが食い違ってなかなか先に進まず、調査が思い通りに行うことが出来なかった。 年齢も70代ぐらいの方でもう昔のことは詳しく覚えていないことが多いようだった。質問も限りがあったので、調査が中途半端に終わってしまったように思う。現地調査の難しさというものを身に染みて感じた。 ただ、訪れた家は、どこも突然の訪問にもかかわらず、温かく迎え入れてくれて、非常に親切に話を聞かせてくださったので本当に感謝の気持ちで一杯になった。歩き疲れてはいたけれども、いろんな事を得ることができて有意義な調査ができたのではないかと思う。 地図が足りなくて書いていない部分もありますが、ご了承ください。 |