【多久市東多久町松瀬、柳瀬地区】

国史学演習レポート

1LT93124■日野 綾

1LT93146■松本佳子

 

(1) 松瀬

 松瀬弥三郎さん(大正12年生まれ 72)

     おととし(1994)は干魃であったにもかかわらず、圃場整備があったため節水はしたが、何とかやりすごすことができた。6/19月いっぱい時間給水があり、8日に一回順番が回ってきて、その時に水をためておく。

     30年前であったなら田は干上がっていただろう。

     現在は56人が農業を営んでいるが、その人数は減少していく傾向にある。減反のため10年もしたら農業を営む一はいなくなるのでは。

     クリークのことを「みぞ」と呼ぶ。細かいため。

 

(2) 柳瀬

 岡島清美さん(昭和生まれ)

1994年の大干魃について

 ずっと前から時間給水の区画がしてあり、柳瀬はそれで間に合った。下流であればある程度田が涸れてしまった。

30年前干魃に遭っていたら

 ほとんど涸れてしまっていただろう。

・昔は何枚もあった水田も、圃場整備のため、12枚に減ってしまった。

・現在の農業について

 ほとんどの人が農業の問題については無関心である。今大飢饉が起こったとすれば、その時はじめて農業の大切さに気づくのでは。

 

(3)主なしこ名と語義

・デエノウチ

  堤防のことを「「ヨコデエ」といい、「デエノウチ」は堤防の内側という意味。

・フナツンマエ

 河川工事以前は水田だった。

・アカイシンマエ

 「赤石」という地名は実際に赤い色の石が転がっているためについたらしい。

・ガタ

 段の低いところ。

・オダ(小田・コダ)

 小田は悪田。

 



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