【多久市東多久町古賀二区東、古賀一区地区】 1EC95052■ 川野祐司 現地調査の結果 最初から言い訳するのはどうかと思うが、残念ながら先生が期待されるほどの成果は得られなかった。ただ、今回のレポートとは直接関係ないが、考えたことが少しあるのでそれを併記しておく。 1 古賀二区東語り手 中村光蔵さん(大正7年生まれ) 中村クイさん(大正5年生まれ) 現在古賀二区と言われている地域は、かつては道節橋と呼ばれ、古賀という名は戦後のものらしい。現在古賀三区東の水田は■(判読不能)の地域のみ。もともとこの地区には水田がなかったが、小城炭坑(s.15年頃〜s.37年頃)のため、山に沿って作られていた谷田は消滅した (Aの■地域。地図省略:入力者) 。平和町などでは支那事変のころ現在のように移行し始めた。古賀平団地(@の■地域。地図省略:入力者) 。元は水田だったが、いずれもしこ名は不明。 古賀二区東には水田は少ないが、他の地域に出た、いわば共有の田があったらしい。梅ノ木鶴、八反田。この中でさらに細かく分けて、その面積に応じて米を分け合った。 道節橋の名前の由来は分からなかった。 2 古賀一区語り手 三根大記さん(昭和5年生まれ) 歴史的には古賀二区と同じ地区を形成(恐らく前述の道節橋)していた。この地域も工業化の波を受けているが、古賀一区の場合、企業が昭和43年から三回にわたって田の地ならしをし、田は良田がなく、特に@の○(図省略:入力者)では良質の米がとれる。60kgの単価で1,000円〜2,000円違う。この地域は度々水害(大水)に遭っているが、現在は水門(@の○(図省略:入力者))のため心配はない。しこ名についてはここまでしか分からなかった。 3 水利等昔は田を耕すのに牛に引かせる「ほまが」という道具を使っていた。これは回転まが、耕耘機を経て現在のトラクターに至っている。 また、とれた米は以前は農協に持って行きカントリー(共同乾燥)にかけていたが、諸地域の米が混ざってしまうので、@の○(図省略:入力者)の米などは独自に機械を買って乾燥させ、商品の差別化を図っている。実際、古賀一区の三根さんは減反には協力するものの、全ての米を農協以外のルートで販売している。 古賀二区東では水田は基本的に谷田であったため、山の方に溜池を作って、そこから水を得ていたが、水が足りないときは北多久から水を分けてもらっていた。これは古賀一区も同様。数キロメートルも水を引くわけであるが、要所には水当番を置いて監視に当たっていた。古賀一区にはこんなエピソードがあった。 水不足で引水が必要になり、ある青年が水当番になった。彼は真面目に水番をしていたが、彼の父親は息子が自分の田の分を取り損ねるかもしれないということで、息子が他の所を見張っている間に自分の田に水を引いた。しかし、彼に水を引いたのが分かり、青年が怪しまれかなりの罰を受けた。後に親の犯行であることが分かったが、親子にしこりができたのも当然だろう。我田引水とはよく言ったもので、また、農家にとって水がいかに大切なものであったかを物語るエピソードである。 現在は灌漑設備が整い、水に関する不安は全くないそうだ。ただ、どうしても足りない時は水車(今はポンプ)で川から直接水を引くこともある。 古賀一区では○に取水口がある(図省略:入力者)。もっと下流の方が都合が良いのでは、の問いには、そこは他が水利権を持っている、との答えだった。 4 その他新食糧法が施行されてからの変化は、という問いかけをしたかったが、できなかった。昔から今の農村の姿を聞き、農作業のことを聞き、生活のことを聞いていれば、自ずと予想でき、また、聞ける雰囲気でもなかった。農家というものは「お上」の言うとおりに行動し、いわば虐げられた存在だった。彼らには未だに強い依存志向と不満が残っている。農業は元来生労働で生産性が低い。しかも莫大な設備投資が不可欠である。勢い彼らは返済の困難な借金をしてしまう。 彼らの一番大きな不満は行政に向けられている。作れ作れと言われてその通りにしたところ、今度は作るな作るなである。特に専業農家にとって「作るな」は「死ね」と同義で、彼らの不満は計り知れない。 ここでは彼ら自身のもつ問題点には触れないとしても、彼らに対する同情があってもよさそうだ。彼らは実体経済をとらえて戦略を練る、ということはしない。というよりしないようにし向けられてきた。そのため彼らの主張は「国の言う通りにしてきた」ということになる。彼らは「米が無くなったらどうするか」である。私は長期的にみて将来世界的な食糧不足がやってくるのは必然だと思っているので、彼らの主張はある意味では正しいと思う。この辺りの議論はもっとされなければならない。 私はここで農家側のスタンスには触れなかったが、それも含めて議論の余地があるが、本リポートでは触れない。個人的にはこの問題について考える機械を得たことが、今回の調査の最大の成果であったと思っている。 |