【多久市東多久町羽佐間、石原、谷下】

現地調査レポート 服部先生学部演習

 

文学部3年国史学専攻 1LT93114花田明子

1LT93091 徳永弘幸

多久の調査報告書(113日土曜日実施)

11時に約束をしていた石原の森永潤太郎氏のお宅へ行き、1:30分に谷下(たにしも)の堤益司さん宅へ行きましたが留守だったため、荒谷貞一さん宅へ行き荒谷千恵子さんに話を伺いました。

 

<石原>

 森永さんのお宅は川向こうの羽佐間の方にある。圃場整備のため場所を移ったそうである。地名の方は地図に記入。赤線で引いてある所がしこ名と思われる(地図省略:入力者)。外に場所を特定できなかった地名として

  ヤマンコバ

  テンムラコバ

がある。コバは「古場」と書き、山を開いた所をこう呼ぶ。

両子山は納所の氏神が祀ってあり、その麓に水天宮があり、雨乞いの神ということである。渇水時は祈ったりしたのだろう。

 屋敷田は大地主の古賀さんの家の近くの田んぼを指す。軍隊の恩給で金貸しのようなことをして、その代金を支払えない者から田んぼを取り上げ、その田んぼのことを総称して“屋敷田”と呼んだらしい。このことから“屋敷田”が昔からあった地名かどうか不明である。

 

<谷下 たにしも、たんじも>

 谷下地区にはしこ名を覚えているような老人はあまり残っていないという話でした。場所、地名とも判明しているものは地図に記入。小字で呼んでいたようである。場所が分からなかったものとして

  ミンダデン

  トウライシ

  ハナブサ

の三つがあげられる。

荒谷さん宅の田ん中の呼び名として八田の内で坂の上、川端、堀の畑と呼び分けていたそうです。

石原、谷下を問わず、この辺りでは小字名が田んぼの名前として使用されており、その内で「○○さんの田ん中」というふうに耕作者の名前で田の名前を表していたようだ。

また、右原と谷下の境界線は、右原橋の下を東西に流れる川であったそうです。山の方の境界線ははっきりしませんでした。

 

入力者

以下地図から地名を摘記

めぐりまち

とみおか、とびおか

ううれ

はった 八田

とのさま山

ひらとこ

うらばたけ

はかんした 墓の下

のうぞえ 野副

かれきまち

新村田

飲屋町

宝背町

大工面

馬渡

小杭

泉田

ひばら町

高柳

屋敷田

こうらだ 高良田

谷田

おおさご

まつやま 松山カ



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