【多久市東多久町羽佐間北・南】

歩き・み・きく歴史学 現地調査レポート

1LT95073 高倉 圭一

1LT95086 豊田 圭祐

 

話者:生産組合長の野方勝之さん(昭和17年生54歳)

   成富定さん(大正7年生77歳)

 

●羽佐間南について

羽佐聞南の周辺の事については、生産組合長の野方勝之さん(昭和17年54歳)とそのおくさんにうかがいました。野方さんは昔の帳簿などを持っていたのでそれを参考にしながら『しこな』についていろいろ聞いてみました。またしちく町、溝羽佐間、平田については現在工場になっており野方さんもわからないということで、その土地の持主の方に『しこ名』を教えてもらいました。また、いつごろ田んぼが工場になったかは知らないということで時間の都合で調査できませんでした。

聞き取りの方法は、まず田のしこ名を聞いてそれから水路のしこ名を聞きました。しかし残念ながら水路にはしこ名はないそうです。ただししこ名の事を「しょうず」と呼ぶそうです。また、昔あったポンプのある場所で、おおいがまというしこ名のところがあるが、その名の由来は人が入るくらい大きいものだったからだそうで、野方さんが子供のころはそこで魚とりをしていたそうです。またその当時は水車で山水を汲み上げていました。現在は舗装整備をして造りかえられています。羽佐聞南自体には田んぼは少なく羽佐間北や別府に多くあります。それらの田は八幡川や西郷川からポンプを使って水を得ています。昔はそれだけでは水が足りずかみの方からも水を引いていましたが、現在では付近からの水だけで足りるようになっています。またこの辺の人が利用している水路のひとつに羽佐間水路というのがあるが、これは成富兵庫茂安という人が造ったもので、牛津川から山あいを通って各地に水を運んでいます。羽佐間南の人々の田はすべて乾田で、水路は多久と牛津と江北の3地区が共有しているそうです。

次に干ばつの時どうしたかについて聞きました。

昭和14年の大干ばつの時には南多久などとの間に水争いが起こり、水源地には交替で見張りをつけていたそうです。

昭和35年の干ばつの時にはすでにポンプなどの機械は整っておりそれほど稲の収穫に影響はなかったが、せきを作ってポンプで水を引いたり井戸を掘ったりしたそうです。

一昨年の干ばつの時にもあちこちの水路から水を引いたり、井戸を掘ったりして稲の被害はそれほどなかったそうです。

 

●羽佐間北について

☆調査の方法

 大正7年生まれ77歳の成富定さん宅を訪ね、田んぼの『しこ名』や水路について調査した。

☆調査内容

羽佐間北はさまざまな村が合併してできた地域である。ここでしこ名についてその名の由来が分かるものについてあげておく。

 :みやのもと→神社の名から

 :どうのもと→お宮のどうにあたるから

 :みなみといいのもと→鳥居の南に存在したから

 :ひばら→雲、スズメ とかく

 :やしきだ→昔、大きな屋敷があったため

 :みぞさき→小さな溝が昔あった 今もその跡はある

△みぞさきに存在する溝→なかみぞ(羽佐間北を潤している)

   なかみぞは八幡川から引いたもの

「くわのもと」から南〜なかみぞ は水路地帯

  :さかえだ→村の境界

△八幡川は八幡様に由来→西郷川の延長

西郷川は相ノ浦から出ている

 

☆羽佐間北の田んぼの歴史

羽佐間北では「ももたい」の上が湿田であった。それはももたいの上の山地部に池があったからである。しかし、ももたい以外はその水を得る資格がなかった。よって、水源ができるまでは他の地域は水に恵まれなかった。

・田によって米の取れ高の差があった。

・大正になり昭和になるにつれ、その差を埋めようとする典型として水源探しが始まった。

つまり、羽佐間北の田んぼの歴史は水源を増やし干害と戦って行くというものであった。

 

*以下羽佐間北の歴史について詳しく説明する。

羽佐間北は水源がある程度あるためさほど水不足に悩まされずにすんだが、たびたび襲われる大干ばつでは多大な知恵や工夫を必要とした。

◇江戸以前⇒分水制:山のため池も利用・もらうという形で

◇明治35年の大干ばつ⇒水源は3つあったが不足した。

:この時出水の実権は「はるち」がにぎっていた。

出水の時間帯をずらしてよりたくさんの水を得ようとした。

(時間配分を町ごとに決めていた)

これに対し村人はそんな水はいらないと竹やりで攻撃

相手は逃げた ― 水争い

◇昭和14年の大干ばつ⇒まったく水が得られない。

:水がやまから流れて来ない。

→夜も徹夜で井戸を掘る。

※水をまったくかけない方が少しかけるより「のいね」として収穫が多いこともあった。

※昭和でも1,2回は『みずぬすみ』はあった。

昭和35年の大干ばつ⇒前回の経験を生かして水の組合をつくる。

→鉄かんをめぐらし水を確保する。(1週間でつくられた)

※現在も組合のなごりで水を分け与えることがある。(同じ村のみ)

◇1980年代⇒鉄かんをパイプラインにかえる。

:干ばつに強い。一昨年も被害はわずか。

数年ごとに交替制で水の調節をする。

 

◎結論として、時代が進むにつれて村人が協力するようになっていることがわかる。

水が無い時少ない水をすべて自分の家にまわしたいが、下のほうが困るといって『3とって7ながす』ようになったのも昭和に入ってからである。

 

☆これからの展望

今の情勢(減反政策、米輸入自由化)

⇒『百姓は生かすな殺すな』:成富さん談

:大変苦しいのでは?

 

最後に現在の農業と今後の農業の行方について聞きました。

近年では区画整理などにより田の面積は狭くなっています。また、牛津川の河川改正によりそれまで川ぞいにあった農家は山の方へ移動しました。これは毎年のようにおこっていた洪水に対する工事で、それ以前は『水害所羽佐間』と呼ばれるほど洪水がよくあったそうです。堤防なども完成した現在では水害はないそうです。

現在羽佐間の農家はほとんどが兼業農家だそうです。(もっとも大きい田では1町。)近年、日本政府はアメリカなどから安く米を輸入しており、そのせいで農業だけでは生活が成り立たないのが現状のようです。また、政府の減反政策により1割ほどの田が畑にかわり大豆などが栽培されているそうです。

現在でも村の入会山は存在し、杉などを植えているそうです。

羽佐間の今後の農業の見通しとしては、ますます農地が工場や団地にかわっていくだろうということで農家の減少が進んでいくようでした。

 

今回の調査では思っていたよりも簡単に『しこ名』などが分かり、スムーズにできました。また少し時聞があまったので野方さんに紹介してもらった建設中の灌漑施設を見に行きました。これにより満潮の時水がはけないので水を溜めることができるようになるようです。(なお境界線や水路の位置は地図にかいています)

次々と農地がなくなっていく中で、私たちの調べた『しこ名』等昔の羽佐間の姿が後世まで残ってくれることを強く望みます。

そういう意味では今回の調査はかなり意義深いものとなりました。

 

 

<牟田辺地区低平地対策事業>(新しくできる灌漑用施設)

 平成2年7月2日に発生した洪水流量がこれまでの計画高水流量を上回る洪水であったこと等の理由から、牟田辺低平地により洪水流量を一時貯留し水位、流量を低減させ、牛津川全体の治水安全度の向上を図るため建設するものである。

 

・排水機場

 遊水地内の水をハイレベルのポンプで排水し、地区内の内水浸水をなくす。

(図アリ省略、原本は佐賀県立図書館所蔵)

・水門越流堤

 牛津川の洪水が高い水位になったら、ここから遊水地内に水が入ってくる。牛津川の洪水が地区内に逆流するのを防ぐとともに、遊水地内に一時的に溜まった水を牛津川に排水する。

(図アリ省略)

・新牟田辺川

 遊水地南側の山裾沿いに新しく川をつくり、山から流れてくる水を下流へ安全に排水し、地区内の浸水被害をなくす。

・初期湛水池

 この池で越流場から入ってきた水の勢いをなくす。また遊水地の水をここに集める働きもする。



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