【多久市納所大門、裏納所地区】

国史学演習レポート

学部3年 江澤健史

宮西 晋

 

 今回の調査で、大門地区は田代敏孝氏他1名、裏納所地区は尾鷲政雄氏(明治41年生)、尾鷲茂太氏(大正11年生)、下村章氏(大正11年生)、七浦国雄氏(大正10年生)、七浦繁雄氏、松尾辰巳氏(大正10年生)より、多くのことを拝聴させていただいた。

 お話していただいたことはしこ名のこと、農業のことをはじめ、地球温暖化に触れるまでに至ったが、まとめると以下のようになる。

(1)    集落の形成

(2)    水の分配について

(3)    自然災害について

(4)    土地所有権について

(5)    圃場整備について

 

(1)集落の形成

  現在は県道沿いの田を埋めて家を建てているが、以前からの集落はすべて山沿いに形成されている。これは生活用水を谷川の水に依存していることと、度重なる川の氾濫のためである。この二方向の水事情により、これらの集落は山沿いで谷川の流れに沿って形成されている。

 裏納所にある「つつみ」は集落をつくるために造られ、その水は生活用水、防火用水に利用された。一方「大門のつつみ」は背後のみかん畑のためだろうか。昭和に入って造られた灌漑用水の溜池である。

 

(2) 水の分配について

  納所地区の水田の水は、県道沿いに流れる羽佐間水道を利用している。羽佐間水道は牛津川上流の羽佐間で取水し、出口まで七ツの堰があり、納所、下砥川、祖子分、惣領分で利用されている。配水の前には村々一斉に川浚いをする。配水については規定があり、配水期間は61日から928日ぐらいまでで、配水期間は地域の広さにより異なる。一例を挙げると、納所6/9 18:006/11 6:00、上砥川6/11 18:006/13 6:00、下砥川6/13 18:006/14 18:00、祖子分6/14 18:006/16 6:00、惣領分6/16 18:006/18 6:00とある。

 水番については、昔はどろぼう水があったり、水争いがあったりなどして水番は堰や水路につきっきりであったが、現在は水の流れ具合を一観する程度のものになった。

 また干害の年は「もらい水」をして少ない水を平等に配分し、全地域に水が行きわたるように工面した。

 

(3)自然災害について

  昭和24年、28年に水害があり、28年は牛津川が氾濫し、被害は山沿いの集落にまで及んだ。しかし、田地の流失はなかった。その後、堤防を3倍の高さにしたためと降水量の減少によって大きな災害はなくなった。

 昭和31年裏納所字白岩、中林にかけて地滑り発生。原因は大雨で」あり、被害は土地が3M落下し、そのため植えていた蜜柑に大きな被害が出ただけでなく、土地利用さえできなくなった。そこで崩落した土地をボウリングして集水、排水して地盤を固め、新たに登記簿に従って配分した。

 

(4)土地所有権について

  圃場整備以前は、個人の田が散在した。山林については個人所有権があった。明治3年と4年に土地測量が行われ8年に終了し、地券が発行された。古老の話に地券の終見は大正末期とあり、事実上地券の通用はその頃までと考えられる。

 山林所有権は田ほど厳密ではなく、登記が間違っていて本来の所有者ではなく登記された者が所有したことや、登記せずに所有すること、また昭和31年の地滑りなどによってね実際の所有者と登記者の記載に混乱が見られる。

 村共有の山林は神社の森とされてきたが、明治になりそれが国有化され、村人はそれを小作していた。戦後はそういった国有林は税金がかかるという理由で所有者はいない。

 

(5)圃場整備について

  15年程前に整理されたが、その費用は牛津町が鉱害補償で無償だったのに対し、多久市は補償がなく有償だった。整備前は田の中でも高低のあったものが、整理により高さが均一になった。そのため、以前は田に水を張るよう水集めに苦労したものが、整備後は水事情はよくなり、水を抜くことに注意すればよいようになった。散在していた個人の田は一箇所に集められたが、道や水路、畑が水田になったため、個人の田の面積は狭くなっていない。そして、水はけがよい分収穫量も増加し、一反辺り3,4俵増しとなった。



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