【多久市東多久町別府1区、別府2区地区】

歴史と異文化理解Aレポート

1EC95045■上瀬真紀

1EC95054■北口りえ

 

(1) しこ名

 この別府地区にはしこ名はほとんどありませんでした。最初にお伺いした岩崎さんの家の前にある「上牟田」を前田と呼んでおられました。

また、この辺りの方は特定の田ん中の名前としてではなく、相対的に東側にある田ん中を「東田」。同様に西側にある田ん中を「西田」と呼んでおられました。そして、別府二区にあたる中ノ園、西中ノ園、下八田、島井本、堂ノ元、三十六等のあたり一帯をまとめて、「四反田(しただ)」という地域名で呼んでおられました。また、大きな田ん中を「大畝町(うーぜまち)」、小さな田ん中を「小畝町(こぜまち)」と呼ぶそうです。これは、田一枚を畝町と言うことからきているようです。他にも一枚の田の中にやむを得なく他人の土地が一部だけ含まれているとしたら、その部分を「わのう」と呼ぶそうです。

※「わのう」図(図省略:原本は佐賀県立図書館所蔵)

  田ん中を仕切る際、中途半端だから一緒にする。

(2) 字名の由来

 この別府地区では最近数年間で、78名の70歳以上のお年寄りがお亡くなりになってしまい、字名の由来について知っている方はほとんどいらっしゃらなくなったということでしたが、少しでも記憶をたどって頂きました。

 まず「下原田」「上原田」の「原田」は地表が乾燥している(こうくろ)田を指すそうです。この田は収穫率が非常に良く、この辺りでは一等田として大切にされています。私はこの田は水田にした場合、水はけが良く水が持てないのではないかと思い、お尋ねすると、ある程度水はけが良くないと稲は良く育たないとのお返事を頂きました。こういうことは、やはり実際稲を作っている方でないと分からない、私たち素人には想像もつかないことだと思いました。

 この原田と対照的に「ふけ田」という水はけが悪い水田があります。ここでは「上牟田」がふけ田にあたります。この上牟田では稲を作っているけれど、他のふけ田では土地が陥没し湿気があるため、レンコン畑にしたり、炭鉱にしてしまうそうです。それほどにふけ田では稲がとれないのです。それにしても一等田の下原田とふけ田の上牟田が、細い水路一本隔ててすぐ隣に位置していることには驚かされました。

 「柴本屋敷」はその昔、侍屋敷があったことに由来しこう呼ばれています。次に「行司町(ぎょうじまち)」は、殿様がここで相撲をとったり、他の人がとっているのを見学したりしたことから来ているそうです。そして山の方にある「射場谷(いばたに)」は多久の殿様がここを狩り場として狩りを楽しんだり、弓の練習をしたりしたことに由来するようです。

 この辺りの字名は歴史的背景に根ざしたものが多いです。私はこの辺りは、昔から和やかな水田地帯だと思っていたのですが、実際には武家屋敷あったり、度々殿様が来たりと意外な側面があるものだと思いました。

 他にも「宝満」は宝満山という山の神様の名前をとってつけられたそうです。

 「平塚」は昔からなぜだか分からないが、ずっと石塚が置かれているから「平塚」と名付けられたそうです。

 また「松元(まつがもと)」はこの田の横に大きな松の木が植えられていたことから松元(松の根元にある田)と呼ぶそうです。

 このように田ん中や周辺に存在する特徴的なものを利用して名付けることも多かったように思います。

 

(3)干魃

 1944年の大干魃の歳は、水を得るために井戸をあちらこちらに掘ったそうですが、ほとんど成果が得られなかったそうです。また、水が降るように石油缶をがんがん焚きながら天に向かって拝んだそうです。この別府地区では1944年の大干魃より昭和14年の干魃の方が印象に残っているという方がいらっしゃいました。

 昭和14年は夏の初めから9月の1820日くらいまでほとんど雨が降らなかったということです。それで別府の123区の共同体(別府町部と言う)で、8月に雨乞いをしたそうです。それはどのようなものかというと、一番高い山である天山の山の神様の前でドラ(鐘、鍋など)をたたいたそうです。人々は皆、山のふもとから薪や藁などの焚き物を各自からって(背負って)頂上に登ったそうです。ここで町部全体が集合して、これらの焚き物を山にしてこぞんで(原文ママ)どんどん燃やしたそうです。この時「真っ黒なって、ふってきた、真っ黒なってふってきた……」と言いながら、ドラをどんどんたたいたということです。

このお話をしてくださった方は子供ながら二これで本当に雨が降るのだろうかと半信半疑だったそうですが、本当に雨が降ったのでとても驚いたそうです。

 自分たちの食べるお米もないくらいのひどい大干魃だったというので、雨乞いをしていた人々は雨が降ってきて、大喜びだっただろうと思います。でも、実際、この雨はほんの少し、涙雨程度しか降らなくて、ひび割れた田に吸われて、水で田を潤すというところまでは至らなかったようです。

 また、他の方の記憶では、ひびが入ってしまった「かわらはぞう」などの溜池に、水の神様であることにあやかって、龍の絵のついたお銭を投げ入れたら雨が降るという言い伝えが古くからあったそうです。もちろん、大干魃の時には、町中でこれを行って雨乞いをしたそうです。

 また一昨年の大干魃はあまりひどい被害はなかったそうです。今の時代は田も少なくなってきて、水も水道水があるし、干魃で苦しむということはそうないそうです。かえって大豊作の地域あったとのことです。10俵もとれたところもあると聞きました。

 干魃より洪水や台風の方の被害がかなりひどかったとおっしゃる方もいました。

 昭和24年の24(24年の大洪水ということ)28年の28水の時は、水が道上にもあふれ出て、稲はほとんどとれなかったそうです。

台風の被害を受けないように、その予防として次のようなことをしたそうです。それは、とても大きな注連縄を編んで、山の頂上から麓までつなぐということです。山の上の神様と下の神様を繋いで、この間を風の神様である弁財天様が通らないようにするそうです。この時、注連縄が切れないように、切れないように、とても慎重にするのが重要だそうです。こうすると、大風が吹いて田ん中を荒らされたりしないそうです。

このように干魃等の田ん中への被害を免れるために、たくさんのことを聞きました。私はこれらのほとんどが神様に頼るという神秘的な方法だったのに驚きました。今と違い昔は、干魃や大洪水、台風等に対しては、人民の力ではなす術がなく、神様におすがりするしか方法がなかったのでしょう。(図省略)

 

水利慣行

 別府地区は大字別府12部落共有で用水を使い、その水は主に溜池から引いていました。

 溜池約8

     ほうぞうじ(宝蔵寺)溜池2

     にいところ(二位所)溜池

     おのじり溜池 23

     かわらきぞう溜池 

     くうずがたに溜池

     しぶきの溜池

  配分についしての特別の水利慣行はいくつかあり、特に干魃の時に行われたようです。田ん中によって水の権利が違い、水路の権利がある人優先で水は与えられました。

 水路の権利の優先順は、昔から水の上流→下流へと決まっていました。水が自由にならないために夜水といってこっそり夜、水を自分の田ん中に引く人もいたそうです。また、水不足の時は、水が自分の田ん中から漏れないようにムシロをこっそりあてる人もいたそうです。

 昔別府地区は干魃しやすい地域であり、溜池に皆がたよっていました。そのため、やはり時には水をめぐって小さい争いが起きたようです。しかし、現在は田ん中が急激に減ったためにそのようなことはなくなり、干魃の時も昔ほど困ることはないそうです。しかし昔、水は流しっぱなしでしたが、最近では上にかけた水を堀に流してまた使うという利用の仕方をしているとのことでした。

 水が余っている時、足りない人は、別の水路からでも自由にもらうことができました。

 

通し水(図省略)

一枚一枚の田ん中に水を通していく。

水の取り口が一枚の田ん中に一つあるとは限らない。

 

溜池

 別府一区岩崎さんや、別府二区森永さんなどの溜池の話では主に「かわらきぞう(土器園)」溜池の話でした。

 

かわらきぞう溜池

 別府一区、別府二区は主にこの溜池から水を引いています。その名の通り、この溜池からは土器、石器のようなものが出てくるため、溜池の前の地蔵様にはそれらの土器、石器などが十数個並べてありました。土師器、素焼の土器。かわらきぞう溜池は養魚池でもあります。魚を養って年に一回魚取りをして自然と混ぜる行事があり、これをのこし言います。これは自然に泥が溜まって浅くなった溜池の泥を抜くために行うものです。

他にも溜池まくりという行事があるようです。これは村人が溜池に入り、足で踏んで混ぜるというもので、そのあと水の排水をすれば中の土が流れ出して溜池がきれいになるのです。

実際、私たちはかわらきぞう溜池を訪ねましたが、この時は泥がけっこう溜まっており、水も浅い状態でした。近年ではこれらの行事はあまり活発ではなく、池に入って池を混ぜる人も減ってきたそうです。

溜池を一週ぐるりと回ってみて気が付いたのですが、コンクリートの栓が三本ありました。昔は木の栓だったのでもっと小さな栓がたくさんあったそうです。

昔から部落には栓係がおり、溜池の栓を扱うことができるのはこの栓係の方だけです。この栓係の方に大字別府の溜池の栓の管理を頼んでおり、村人は栓係に水を分けて欲しいと頼みに行って許可を得る必要がありました。今は栓係は堤のふうつうさん(ママ)だけであり、この係は23年交代だそうですが、今も昔も、溜池の栓に関する決まり事は変わらないそうです。

時間給水は別に徳辺名呼び方はありませんでしたが、分水と言っているようでした。農協、管理所に何時から何時まで栓を何本抜くように頼みにいくもので「はす」という水の許可証をもらって水を得ました。

断水の時は分水をして、東多久中で分けていたそうです。

また、このかわらきぞう溜池は、満水になったら自然排水で多久川に流れていくようにうまくできていました。

水不足の時は、今出川からの水を分けてもらえるように水の権利が与えられています。しかし、普段はこの権利はないそうです。(今出川→天山)

(図省略)

 

田ん中、畦

 かつて田んぼには水を張る前に「あぜ波」をつくっていました。田んぼを足踏みして土を上げ「波」をつくることを「あぜぬり」と言い、水を張った時に、水が漏れるのを防いでいたのです。この畦(土を寄せた所)の分の豊富な栄養分がもったいないため、畦には大豆や小豆を播いて作っていました。

 しかし、現在ではビニールを張るために「あぜぬり」の必要がなくなりました。

(断面図アリ。図省略)

 また、昔は夏に「あぜぬり」をして、冬には畑をつくるために、それを壊していました。畦を作っては壊し、作っては壊しの繰り返しで、田ん中を利用していたそうです。しかし、これも今では作ったまま利用していました。

 大水の時は田がそぜないように(原文ママ)早く流していたそうです。

 主に水稲を作っていました。

(図省略)

 

犠牲田

 大水の時水を止めるため、上の田ん中は犠牲にしたそうです。農村では横土手(よこでい)から上が主に犠牲田でした。

 

手間がえし

 農家の中には牛を飼っている人もいましたが、家畜牛一頭飼うのに一年で四反必要だったため、大農しか飼えませんでした。

 牛を飼えない人は牛を借り、代わりに麦をつくって労力奉仕をしていました。これを手間がえしと言っていたそうです。

 

入会山

 かわらきぞう溜池の北側にある山で、岩屋山を中心にあらひだ、きん山などがあったそうでした。詳しくは分からなかったそうですが、きん山は現在火葬場として利用されており、その周辺の山際は開発計画により公園化されているとのことでした。

 

部落のでごと

 入会山は村共有の山林であるため皆で管理する必要があります。そのため「でごと」といって一区がどこを切るか、二区がどこを切るかなど、区割りをして一斉に伐採に出掛けていました。

しかし、最近では村人は畑仕事だけでなく仕事をしているので忙しくなかなか皆で集まることが難しくなってきました。共稼ぎも増加。そこで、「でごと」に出られない人は出不足でお金を出すことにしたそうです。

最近はお金を集めてアルバイトを雇い、伐採をしているという状態でした。

 

字名の由来(つけくわえ)

・内田

 大川より南側で道路から出られないので内田という。

・清水町(しようず町)

水源がありこんこんと水が湧いていたため。

・大坪

 別府には一ノ坪、九ノ坪など坪の付く地名が多いが、すべてはこの大坪がもととなっているらしい。

 

古いならわし(つけくわえ)

 あらえ山には女の守り神がいて、毎年415日には相撲で賑わうそうです。

 

別府一区、別府二区を訪れて

 私たちが別府一区、別府二区を訪れてまず最初に思ったことは、田んぼが少ないということです。この村でも都会化は進み、工場、住宅、店が立ち並んでいました。村の人も田んぼが減り、昔のことを知る年寄りもだいぶん減ったと嘆いておられました。

 調査するに当たって困ったことは、別府一区、別府二区が入り乱れているということでした。きちんとした境界はなく、別府一区にぽつんと二区の家があったり、別府一区の区長が二区にいたりしていました。道路改良で二区の村民が一区に移り住んでも行政上二区のままで行動するため、ごちゃごちゃで分からなくなってきているらしいのです。だから、一区と二区の境は定かではないのですが、一応調べたところで書いておきました。

 長い歴史を持つ旧水田や複雑な水利慣行が着実に消え、村人の記憶も薄れる中、このような調査にあたったことは授業の枠にとらわれず、長い目でみてよいことであるように思います。

 実際目で見て別府を歩き調査したことは何にも替え難いことであり、貴重な体験であったと思っています。これから先、どんどん都市化は進み、田んぼも減っていくでしょうが、またこのような調査を行い、佐賀の歴史を形にして残しておくべきだと思いました。



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