【佐賀市高木瀬町坪の上、長瀬地区】

現地調査レポート

1LA99050 大園知子

1LA99038 宇野弘子

 

高木瀬町

 

小字坪の上

テンジン(天神)、ノバタケ(野畑)、コゼンバヤシキ(コゼン坊屋敷)、ノマンハシ(ノマン橋)、ツボノウエバシ(坪の上橋)、コデラガワ(小寺川)、オオテキ(追手木)、サンボンマツ(三本松)、イッポンスギ(一本杉)、サンボンスギ(三本杉)

→坪の上での聞き取り調査による

小字長瀬

三本松、一本ノ内、栗ノ内、八ノ角、カジ籠、森の元、大木戸、乾隅、八ツノ尾、藤ノ谷、トロトロイ、川バタ、馬場、小路、北小路、中小路、デーノ内、川中、三本ノ中、四本ノ中、五本ノ中、島ノア合、八反角、矢倉、横溝、ショウブ川、油提、彦チャン提、長瀬橋、出口橋、ネコ橋

一『高木瀬町史』による

坪の上の杉町八郎さん(大正10年生まれ)を訪ねると、坪の上公民館に案内された。公民館には自治会長の赤司誠さん(昭和7年生まれ)と公民分館長の永渕重利さん(昭和9年生まれ)もきていただいており、2時間程お話を聞かせてもらった。

 

村の水利について

村の水利について知る上で重要な人物が存在する。それが、治水の神様と称される成富ひょうごである。彼は、数学や天文学を得意とし、江戸時代、治水関係に携わっていた武士。そして、彼は嘉瀬川から水をせき止め、運河、多布施川をつくり、石井樋を設けた。石井樋は、春目町(現大和町)に存在する。

佐賀は、平野が多く海抜高度が低い。そのため、佐賀平野北部では、遊水池を設け、大水害から守っていた。金立町の沖田では、その地名の由来にもなっているが、大雨が降ると、沖のように水がたまっていたという。その水は、兵庫の巨勢川に流れた。沖田では、雨水とともに富養な栄養土も土砂となって流れ、肥料なしで作物が育っていた。豊作地帯であったため、年貢として米を納める義務もなかったらしい。ただし、数年に一回水害に見舞われていた。

 

【石井樋にまつわる話……】

 石井樋には、水害で犠牲になった人たちのための観音様がまつられている。そのむかし石井樋の水を止めたら強風が吹いたらしい。

すると、その地域の人たちは石井樋の神様がおこって風が吹いたんだと思っていたらしい。『もちろん、そいは、ただの偶然やったて思うけどね。』と杉町さんが笑いながら話された。

 

米の保存

米は、籾で取って倉の中に入れていた。気温の差に応じてわらで作った入れ物に入れた。家族で食べる米は、自家用飯米(ハンミャー)と呼ばれている。

 

村の動物

牛は、戦後に入ってきた。牛は馬より足が遅く、能率が悪いため馬を労力として用いた。大きな農家には、大きないい馬がいた。馬には、夏、れんげ草を与えた。『昔の人はよう考えとんしゃっね。馬屋は、かまどの近くにあったとよ。なんでかて言うぎさ、ご飯のにおいのすっとさ、馬のホーホーて鼻ばならすとたい。そいで、まず馬にえさばやってから、自分たちも食べよんしゃったとよ。』

これは、馬の分のえさをやり忘れないための知恵らしい。

 

祭りについて

村の祭りについて、どういうものがあるか尋ねたところ、

@ 平尾すもう大会

『昔ね、平尾ですもうのあいよったよ。素人さんたちの各地区から集まってしよんしゃったよ。諸富からも来よんしゃったよ。』

A 2月もも手祭り(坪の上天満宮の祭り)

昔は、21目に行われていたが、今は休日の関係で第4日曜日となった。

B 7月第1日曜日 夏祭り

C 1123日坪の上秋祭り(収穫祭のような祭り)

『昔はね、しめ縄なえばして、22日前夜祭のあいよったとよ。

そいで、お宮の鳥居に飾いよんしゃった。』

D 坪の上こども祇園

717日女祇園祭り

725目男祇園祭り

この祭りについては、内容は決まっておらず、地域での小さな祭りであるらしい。

 

村の発達について

商業は、牛津のほうが発達していたらしい。高木瀬あたりは、農民が多く、貧富の差はほとんどなかった。

・電気

昭和6年頃普及した。電気が来るまで、電灯にはランプを用いていた。

杉町さん『ランプは、すすで真っ黒なっでしょうが。そいけん、そいば磨くとば、手伝いとしてさせられよったよ。新聞でランプば磨いて5厘こづかいとしてもらいよったとよ。』

ヘッチーサン(かまど)は、わらが燃料だった。山の人は米がなかったので、しばをシャリキ(リヤカーのような荷車)に積んで売りに来て、しばと米を交換していたらしい。

・ガス

都市ガスは早くからあるが、プロパンガスが来るのは遅かった。

 

塩・魚の入手について

『塩はね、シャリキで運んできよんしゃったよ。あと、長瀬(多布瀬川)まで川船ん来よった。魚もね、新鮮な魚ていうとはなかったね。塩鯨とかが主やったね。』

 

佐賀平野は干拓されており、今と比べると、海までの距離は多少遠かった。しかし、それでも海からの魚は、加工されたもの等が、入ってくるのが多かった。

 

昔の若者について

若い頃は、どうだったかと尋ねると、昔を思い出しなつかしむ表情をして、次のように話された。

『私たちの若か頃はね、友達といっしょに外で、暗うなんまで遊びよったとよ。子供時代は、剣道の盛んやったねえ。』

次に、どんな遊びをしていたかたずねると、ちょっと微笑みながら、『レンボウとかしよったよ。レンボウてあんたたち知っとんね? 田ん中に木ば削ったとば刺す遊びたい。あと、そいから、ペチャとか、こいは「めんこ」のことよ。唐旗(トーバタ)あげ、凧上げのことばってんが、こぎゃんともしよったね。』

昔のなつかしい思い出が、どんどん蘇ってこられたのか、遊びについての話に盛り上がられていた。

『陣取りとか、瓦あて、じゃーといごと(かくれんぼ)、ラムネ玉、ズーグイゴマ(どんぐりごま)もしよったね。おいたちも、ほんなこて若か頃のあったとばい。』

本当に楽しそうに話されていた。

 

恋愛について

次に恋愛の自由があったのかなど、恋愛のことについて聞いてみた。

赤司さん『私はね、結婚は恋愛、いや、大恋愛でしたよ。』

杉町さん『○○家の娘(S氏の奥さん)ばね、自転車ば、一生懸命こいで見てきたもんね。そいで、OKばもろうたときは、飛び上がっごと嬉しかったよ。もおー、万、万歳やったよ。』

永渕さん『昔は、親の決めた相手と結婚するとが、農家は多かったよ。結婚相手の顔ば、結婚式のときに初めて見たて言う人も、おんしゃったとじゃなかね。』

赤司さんは、照れた様子でニコニコしながら、話された。また、杉町さんもちょっと興奮した様子だった。

 



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