【佐賀市高木瀬町上高木、上淵、川原屋敷、寄人、東高木、辻村地区】

歴史と異文化理解A現地調査レポート

1EC95089 竹下高志

1EC95083■  新郷充

1EC95082 新開秀行

1EC95113■  中坪隆

佐賀平野現地調査

 

<上高木>……松田ミヨ様

 上高木地区では、住宅化が進み、田んぼの広がる風景は見られませんでした。松田さんも、当時の田のしこ名などに関する記憶がなく、地図にしこ名などが記録されていないことをお許し下さい。でも、松田さん自身が祖父などから聞いた当時の一帯の地名の由来や、住宅化が始まる前のここら一帯の出来事にまつわる話などをお聞きしたので、ここに記したいと思います。

 

@地名の由来

 1、大敵(おおてき)…佐賀の乱で追われて、たくさんの武士が亡くなったといわれています。以前には、そこら一帯に首塚があったそうです。

 2、小寺(こでら)川…ずっと以前には、裏土手川と書いて「うらんでい」川という名称があったそうですが、俗には当時、牛馬耕に用いられた馬をその川の水で洗い流していたことから馬出(うまいで)川と呼ばれたそうです。その川が、今は小寺川と呼ばれるようになったという話でした。

 

◎ここで、「小寺川」にちなんで、当時の小寺川の役割と今の役割との相違点を話されたので、くわしくまとめてみました。

「この一帯は、住宅化が進み、田んぼという田はほとんど住宅と化していました。住宅化が進む前の当時には、農業用水路として使用された。この川は、今ではほとんど生活用の排水路として用いられると同時に、一部農業用水路として用いられるという二面の役割を持っているそうです。その仕組みとしては、田んぼの広さによって、大きさの異なる排管を設定し、適量の水を田に送り込むという仕組みになっているそうです。」

 

◎住宅化が進む以前の、田んぼがたくさん広がる当時での、「水」にまつわるエピソードがあるので今から述べます。

 以前、このあたりは、「ビッキ(カエル)の小便してでも大水のずる」という言い草があったそうですが、それの意味する所は、それほど水はけが悪いということで、大雨が降ると小寺川の水がいつもあふれかえっていたそうです。

 又、当時の地区内での水引きに関するエピソードも聞くことができたので述べたいと思います。当時、北山ダムというダムができるまで、水引きのけんかがたびたびあっていたそうです。水を日割りによって流すという決まりがあっても、それを違反する者がいて、夜中になってまで水を引くということが何度もあったそうです。この水引きにまつわるエピソードの中に、当時の様を皮肉る一つの言い草があったので述べたいと思います。それは「農夫のけんかは水引き」というものです。当時にこういう言葉まで生まれるほど水引きの争いがあったことを物語っています。

 

◎又、当時の害虫対策についての話しも聞くことができたので述べたいと思います。「当時は、今のように消毒という簡単な方法もなく、一つ一つの作業にたいへん手間がかかっていたことを言われました。その具体的な作業としては、アブラの入ったビンを手に持って、そのビンの中のアブラを田んぼ中に、ある間隔をおいて何滴か垂らすそうです。そしてささの葉を使って、稲の葉につく虫(松田さんがいうには、白く小さな虫で、米ぬかみたいなものである)を田んぼの地面に落とすそうです。すると、その虫は田んぼの下にある油によって死んでいたそうです。現代の化学薬品に比べて非常に原始的な駆除方法ではあるが、人体への影響はなく、安全な方法だと述べられました。」

 

松田さんの話を、うかがってみて、非常に自分のためになる発見ができたことに感謝しています。

 

 

<上淵>

 上淵のしこ名を教えて下さった、永渕さんの話によりますと、上淵では、大正生まれの方は、もういなくなってしまったということでした。しかし、永渕さんは、しこ名にはかなりくわしいお方で、田、堀、橋などほとんどの上淵のしこ名を場所も的確に説明してくださったので、一緒につけています図をご覧になっていただければ、これらの事に関しては、よく分ることと思います。しかし、いかんせん永渕さんもあまり年を召された方ではなかったので、しこ名の由来や漢字などは分らないとおっしゃっていました。ですから、一応しこ名を漢字で書いてはいますが、それが本当に正しいものかどうかは、分りませんので、その辺のところは御了承願います。また、時間の関係上、永渕さんのお宅をすぐ出なければならなかったので、昔のことに関しては、よく聞くことが出来ませんでした。しかし、この高木瀬周辺の話は、松田ミヨさんから、かなり詳しいことを聞くことが出来ましたので、そちらを参考にして頂きたいと思います。付け足しのようになりますが、佐賀市内では、ここ十数年前から、田を住宅地に変える事業が急速に進んでいるようですが、上淵のみに関して言えば、まだ、その区域には入っていないようで、まだ、かなりの人々が農業を営んでおります。しかし、いかんせん米の自由化や減反などのために、稲作をしている人々は減っており、最近はナスのビニールハウス栽培をしている人も多いようです。

(余談)実は、永渕さんの家の前で車を田に落としてしまいまして、困っていたところ、永渕さん一家の方々が総出で車を上げてくださいまして、大変うれしかったです。佐賀の人々はいい人々だなと感じた一幕でした。

 

 

<川原屋敷>

 川原屋敷の調査は、依頼した方々全てにふられてしまいましたので、仕方なく道端で聞き込みで調査したのですが、川原屋敷周辺は、上淵とは異なり、田や畑はかなりなくなって、住宅地などが立ち並んでいました。もちろん田のことについて知っている人も少なくなっているようで、どの人々に聞いても、「分からない」の一辺倒でした。7時頃まで粘ったのですが、どうしてもわかる人を見つけることは出来ず(人通りも少なかった)何も情報収集することが出来ないまま、帰ることになりました。仕方がないので、自分が見た現在の川原屋敷の様子を書かせていただきますが、国道263号線沿いということで、国道沿いには、いろいろな店が並び、また、内へ入れば市内団地や中学、高校、また、県総合運動場などもあり、まさに住宅地という雰囲気をかもしだしていました。道もきれいに整備されており、昔この辺りが田や畑だったという感じはありません。本当にいわゆる住宅地でした。というのが私の感想です。何も役に立たなくて申し訳ありません。しかし、この辺りは早いうちに調査を進めないと、田のことを知る人が全くいなくなるのは、時間の問題かもしれません。

 

 

<寄人(よりゅうど)>…江口善行さん

 「寄人」の地名は荘園制度から生まれたものといわれている。寄人とは、荘園において身柄を所在の荘園領主以外の領主に属した農民のことであり、年貢は荘園の領主に出すが、雑役などは所属領主の命に従った。また、一説には、昔は宿屋があって人がたくさん寄り集まってきたので寄人という地名が起こったといわれる。

 「龍堀」には次の伝説が伝えられている。昔、この地に大きな竜巻がおこった。堀の水が吸い上げられて堀の水はからからになったが、そのあとには龍神の落とし子のかわいらしい蛇が一匹残っていた。寺では龍神を慰めるため弁財を祭った。これを宗像弁財天という。

 「寄人天満社」はお天満さん、お天神さんとよばれている。創建されたのは約280年前と推測される。

 寄人は、住宅化が進行し、また減反政策によりビニールハウスで野菜を栽培するという農家が多く見られた。また、医大が置かれるという話もあったが、鍋島(と思う)に移されたため、古い時代の名残はまだ見られるだろう。

 主なしこ名、橋

  ソネ田、五反造(ごたんぞう)、赤阪、瓦町、高録(たかろく)、踊町、吉重(きちじゅう)橋など

 

 

<東高木>…中島昭則さん

※中島さんは東高木地区の田んぼのしこ名とその場所をご存じでなかったとのことです。中島さんからもらった資料をもとにレポートを書いています。

 

 東高木は高木城のあった所で八幡社など多くの神社、寺院があった。そのため城や社にちなむ地名が今も数多く残っている。例をあげれば、若宮小路・矢蔵下・郷倉・権現堂・為朝池などである。

 東高木は東高木部落と八丁畷から成り立っていた。八丁畷が発展し、戸数も増加するにつれて自然に独立する形となり、昭和36年には行政的にも独立した。

 

 為朝池……昔、鎮西八郎為朝が九州に下り、神埼郡屋形原からここに陣を移した時、無数のカエルがやかましく鳴いていたので、「アアヤカマシナクナ」と大声で叱ると、カエルはその威勢に恐れをなした。それ以降ここのカエルは絶対に泣かないと伝えられている。

 

 

<辻村>

 地名の起源は交通に関する地名と思われる辻は、道の分岐点を意味する佐賀城下の東の方から、金立、川久保方面に行く道の分岐点に当たる所から辻という名が起こった。安政四年の、上佐賀郷大配分東高木村の地図には、現在の浄蔭寺の南約二百米の所に妙安寺という点があった。

 

 辻天満宮…領主鍋島山城守直紹公の創立。山城守は西渕にも天満宮を創っており、それ(貞享二年乙丑・一六八五)と同じ頃に創立されたと思われる。昭和二十四年に修築。神前の鳥居は大正八年に再建された。神殿南裏側には、約2m位の管公千年祭記念碑がある。明治三十六年の建設と思われる。天満宮と共に修築された稲荷神社は、天満宮の境内にはなく、天満宮の南方に当たる松村信雄氏宅の一隅に、コンクリート作りの低い堂宇の稲荷社として残っている。

 

 龍堀……浄蔭寺は元鍋島家の館であった。徳川初期には城を新しく造ることは禁止されていたので、館を寺とし、周囲に堀を巡らし、実は城郭としての役目を果たしていた。南北に大きな堀があり、又、東西にも堀を作ってあたかも龍が横はっている形をしていたので龍堀といわれていた。



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