【佐賀市高木瀬町平尾、二俣地区】 歴史と異文化A現地調査に関するレポート 1EC95195■ 吉村隆志 1EC95206■ 井原茂樹 @しこ名について 今回、調査したしこ名は、江戸時代につくられたものから、ほんの20年前につくられたものまで入っている。平尾による調査では、村の歴史に詳しい古川さんを訪れたわけだが、しこ名がどうやってついたのか、例えば早稲田なら、そこの田では昔、早場米のような早い時機に実る稲をつくっていたなどを教えていただいた。そのしこ名なのだが、現地の人の間では、場所の目印という用途がほとんどであったらしい。「今日は、○○さんは、どこの田ん中に行っとるとかねえ?」「××のあたりやなかですか」などの会話で使われていたらしい。 A村の水利のあり方 このあたりは上流に北山ダム、石井樋を備えた川が流れており、豊かな水を常時たたえているらしい。が、しかし1994年の旱魃にはさすがに心配があり、2日おきに水割を行ったらしい。平尾、二俣のあたりは先にも言ったように水が豊富であり、旱魃はほとんどなく昔から水害がたびたびおこっていたらしい。石井樋の上の市の江のせきで、水害のために堤防がこわれ、麻土をふくろにいれてせきとめた事もあった。また、このような水害により、川の北側(主に百石の北)が氾濫するのがほとんどである。また、川の北側の田ん中は水利権をもたないため、水が思うようにひけないこともあり、そういう面であまりいい田ん中ではない。 30年前に旱魃がおこったら?と尋ねたところ、このあたりは昔から水には恵まれており、大丈夫であっただろうという。しかし、井樋番や六軒などへの意識の高まりはもっとはやかっただろうといわれていた。 B村の耕地 永渕さんの話によると、先にもかいたように、川の北側は湿田であり、南側は乾田である。また、地図上みどりの斜線の位置は、今佐賀市の都市開発管理によって平地ダム(乾田ダム)をつくり、洪水や水の余った時にいつでも流し込めるように、整理されている。また、湿田には税金によって援助がされているらしい。入会山はないが、入会地は神社の裏の敷地などがあるらしい。 ※川とは佐賀導水のことです。 ※平尾東については、昔沼だったらしく、しこ名はないということだった。 以上、佐賀の現地調査の報告です。 |