【佐賀市高木瀬町八丁畷、東高木地区】

歩き、み、ふれる歴史学佐賀現地調査レポート

1AG96226 宮内洋子

1AG96224 水田春子

・調査地 八丁畷町

     東高木(仲田代、上分)

     高木瀬一丁目

     高木瀬四丁目

     高木瀬東五丁目

 

・訪問した人 野方英次さん

       八田昭さん :S29.1.2  42才

       田中利視さん:T10.1.15 74才

       張弥一さん :T4.6.22  81才

       菖蒲俊昭夫人

       福井常夫さん

       永田勝さん :S5.11.30 65才

         武次さん:S35.10.4 35才

 

・しこ名一覧

田:森田さん

  沖田(オキジャー)

  牟田田(ムタダ)

  銭田(ゼンダ)

  ウノ鳥

  どう堤(デー)

  しまんつぼ

  玄海(ゲンキャー)

  まえだ

  いでむこう

  花立(ハナタテ)

  五反双(ゴタンゾウ)

  赤坂(アカサカ)

  丁鉢(チョウバチ)

  丁の坪(チョウノツボ)

  すみや

  一の坪

  すみだ

  こでら

  もものき

  田畑(タバタ)

  ばばさき

  館(タチ)

  館(ヤカタ)

  やぐらのした

  松のでー

  十の坪

  やわら

  おきな

 ※やーまち、いんきょ田

(計31コ)

 

橋:そい橋

  倉の橋

  やかた橋

  大堀橋(おーぼい)

  吉重橋(きちじゅう)

 

関:長針(ちょうばち)

  赤坂

  中井手(なかいで)

  大神宮(だいじんぐう)

  踊町中(おどいまちなか)

  やぶれ井手(でい)

  馬出川(うまいでがわ)

 

水路:高六(たかろく)

   みつた

   むつんぞうでい(どて)

 

川:火張川(ひばり)

 

堀:なまずぼり

  大堀(おーぼい)

  小堀(こぼい)

  竜堀(たつぼい)

 

※1つの田に対し、別々のお宅で別々のしこ名をおっしゃった。ただし、その田の持ち主である野方英次さんは、“やーたまち”とおっしゃった。

 

・田ん中の数え方

 田ん中は“1まい”“2まい”と数える。これは新しい発見だった。

 

○水利のあり方

 昭和30年代あたりに北山(ほくざん)ダムが設置され、佐賀土地改良区では、安定した水が得られるようになった。そのため、1994年の旱魃時も困らなかったらしいが、北山ダムが設置される前は水が不足すると、村の水を確保するために徹夜で水の番をしていたこともあった。東高木では嘉瀬川と多布施川の分岐点である。石井樋(いしいび)から水を取り入れ、地図上の緑の線で示した水路より引水している。多布施川付近に田をもつ人々は、多布施川から水を引いているが、この多布施川やこでら川は成富兵衛之助(なりとみひょうごのすけ)によって作られたらしい。このおかげで、嘉瀬川の水を有効に利用できるようになった。佐賀土地改良区では、現在、北山ダムの設置経費と維持費を賦課金(ぶかきん)として徴収しているらしい。

 

 1994年は未曾有の旱魃の年であったが、東高木では北山ダムが建設されていたので、被害はほとんどなかったようである。したがってどのお宅で尋ねても、特別な水対策はなかったということだった。しかし、もしこの旱魃が30年前の出来事だったら、まだ北山ダムが建設されていなかったので「大変だったやろうなあ」ということだった。しこ名を聞くのに時間がかかったため、水対策についてはあまり具体的なことをお聞きすることができなかった。

 

 東高木の西側は、地図に示した様に大きく分けると、北西の方は砂地なのであまり土地は良くなくて、南東の方は粘土質なので良田である。東高木については場所による差はあまりないようである。高木瀬では、裏作としてビールムギやコムギなどが作られている。

 

 戦前は、田中利視さんの田では、干し魚(いわしなど)や大豆やなたね油などのかすを混ぜて肥料にしていた。張弥一さんの田では、下肥をリアカーで運んできたり、にしんが取れすぎた年はにしんを干して乾燥させ、うすで砕いたりして肥料にしていたそうである。また、綿の実のかすや、大豆のかすなども肥料として利用していた。そのほかに、ホリにつもっている泥を乾燥させ砕いたものも肥料となった(田中さん)。これらの肥料は、戦前から化学肥料がでてくるまで使われた。

 

・感想(宮内洋子)

 今回初めて佐賀に行ったが、非常に気温が高く、また、バスで行ったため、現地での交通手段が徒歩だったので、かなりきびしい調査であった。事前の準備があまり整っておらず、当日直接村の人を訪問することになったため思っていたより調査がはかどらず、帰りのバスに乗るのをあきらめる結果となった。

 初めに、八丁畷に行ったのだが、ここではかなり住宅化が進んでおり、田んぼが2〜3枚しかなく田んぼのしこ名ぐらいしかわからなかった。以前、農業をしていた人を2人ほど紹介してもらったのだが、時間の都合上行くことができなかったのが残念である。

 東高木では多くの田んぼが残っていたが、区長さんが留守であったりして、なかなかスムーズにいかなかった。自分の所有している田んぼのしこ名ぐらいしか知らないという人が多く、少し教わっては別の人を紹介してもらい、数軒を訪ねてまわらなければならなかった。しかし、東高木では、かなり多くのしこ名を集めることができたのではないかと思う。当初の予定より、かなり時間を延長し夕方ごろまで調査したのだが、時間的な問題等で紹介してもらったにもかかわらず、訪問できなかった家も数軒あるのが残念だ。

 今回の調査の問題点は事前準備が不十分であったことと、現地での交通手段が限られていたため移動に時間がかかったことであるが、その中で自分達なりにがんばって多くのしこ名を集められたし、佐賀の人々との交流もできたので、非常に意義のある調査であったと思う。

 

・感想(水田春子)

 調査に行く前はただ行って聞いて、帰ってくればいいと思っていた。2、3日前に、バス組で佐賀調査に行った友達に聞くと、かなりうまくいったようだった。事前の電話も手紙もなしで行き、農作業をしている人にたずねると、色々とお話してくださって、昼食もごちそうになったということだった。そして、「気楽に行ってきたらいい」というアドバイスをもらった。しかし、彼らの場合はとてもうまくいった良いパターンだった。そして、我々はとても苦労した最悪(?)のパターンだった。“しこ名”は思っていたよりも理解してもらえた。「田んぼの昔からの呼び名のことです」と言うと、すぐ分かったようだった。「そがんとじゃなかとです」というセリフを2人で練習していたのだが、使うことはなかった。“田んぼ”と言うと分ってもらえないこともあった。やはり“田ん中”のようだ。

 行く先々で「○○さんの家に行ったらいい」と言われ、かなりのお宅を訪ねた。前に書いた以外にも、かなり訪問している。留守だったり、情報が得られなかったりしたために、名前は書かなかった。たくさんのお宅を訪問して感じたことは、世代交代が進んで、しこ名はあまり知らない方が多かったので、しこ名が本当に消えていってしまうのだろうということだ。しこ名だけでなく田もかなり減ってしまっている。昔の地図には田となっている所が、現在の住宅地図には田がほとんどないような所もある。「昔はやっていたが、今はもうやっていない」と言われると、なぜかとても残念だった。

 帰りのバスをあきらめ、ひたすら歩き続け疲れ果ててしまったが、福岡までの帰り方が分らず佐賀県警でたずねると、親切におしえてくださった。部活の合宿の間に今回の佐賀調査に行ったので、かなりきつかった。帰りのJR、地下鉄では、ひらすら寝た。行きのバスでもすでに寝ていたが……。(行きのバスでは服部先生に席を譲っていただいたのは私です。助手席ではジュースの缶が置けず、ねるにねられなかったので、本当に助かりました。ありがとうございました。)帰りのJRが予想外の大出費だったが、しこ名はかなり収集できたので、満足している。まさに“歩き、み、ふれる佐賀調査”だった。



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