【神埼郡脊振村鳥羽院上・内川久保・流川内】

歴史と異文化理解A 現地調査レポート

1TE96851 田中一規

1TE96707 牧山真弓

1TE96858 日野伸隆

(宮崎班)

古老の名前

○鳥羽院上内川久保

 坂井喜一さん 大正14年生まれ

 実本清秋さん 大正元年生まれ

○鳥羽院流川内

 森田秀雄さん 大正7年生まれ

 森田キヌエさん 昭和3年生まれ

 

しこ名

○鳥羽院上内川久保

 カキウチ

 ムカエ

 コナゴイサコ

 ヨシタニ

 カリマタ

 ウラノタ

 オオムタ

 ヤナギムタ

 カザハヤ

 ナカムタ

 ウーサコ

 コヤンタイ

 クウメンタイ

 ヒラキタ

 タンノサコ

 カンネンサコ

 モチダ

 ニシンサコ

 ヌンタイ

 カクシン

 アワノンタイ

 カミノウエ

 

水利の報告

鳥羽院内川久保には溜池が作られていた。

満面水不足で台風が3つぐらい来ないと水不足は続くそうだ。水をめぐっての争い事は起こったことがないそうだ。それは平地とは違って地形の関係で水の割り当ては決まっているからである。 1994年の水不足の時は遅れたがなんとか足りたそうだ。

 

当日の行動

私たちは車班ではなく、バス班だったので、 711日の木曜日に現地鳥羽院内川久保、鳥羽院流川内に向かった。脊振についてバスを降りたところは、鳥羽院下だったので、鳥羽院上まで約2キロも歩いて戻らなければならなかった。例年当日は俺熱地獄か土砂降りのどちらからしいが、天候には恵まれていたようである。約2キロ歩いて現地に着き、まず鳥羽院内川久保で調査を開始した。時間がお昼前だったので家を訪ねても田畑での作業から戻ってきていない人が多く、留守が多かった。

まず、生産組合長の実本輝美さんのお宅をうかがったが、田畑のことはわからないそうなので区長の佐藤文雄さんのお宅をうかがったが、こちらも無事であった。他の家を訪ねると、坂井喜一さんがいらっしゃったので、お話を伺うことができた。

その後道端で昼食をとり実本清秋さんのお宅を訪ねた。終戦後、国有林にあったところが払い下げされて、開拓が始まっていつの間にか鳥羽院開拓と呼ばれるようになったが、今は家は1軒しか残っていないそうだ。また、村の水利の話も聞くことができた。

それから鳥羽院内川久保に行ったが、昼食時が終わって仕事に戻ってしまった後で、 11軒訪ねてもほとんど留守だった。しかし、森田秀雄さんと森田キヌエさんがいらっしゃったので、話を伺うことができてよかった。最後の1軒だったので1時はどうなることかとヒヤリとした。

全体的に戸数も田んぼの面積も少ないので、米はあまり取れないそうだ。小さな田んぼのひとつひとつにもしこ名がついているらしいが、面倒くさそうで大きな田んぼのしこ名しか教えてくれなかったのが残念だ。

それから来る時にバスを降りた所付近まで戻り、路上で座り込んでバスが来るのひたすら待った。1時間近くたってもバスが来ないので、置いて行かれたかと不安を覚えたが、無事バスはやってきたので良かった。

 

おまけ

流川内の呼び名について

正式名称:ながれかわうち

通称:ながれごうち

 

この調査について

流川内、内川久保は山地で田んぼは山の斜面を水平に切り開いて作ったものだったので、 11つがとても小さい。そしてそれらが地図に載っていないので、平野で調査を行う班と比べて大変だった。田んぼはかなり数が多く、古老たちも面倒くさがってあまり教えてくれなかった。

これらの部落では人がほとんど住んでいないようで、田んぼに行って働いている人はほとんどいなくて、家を訪ねても大部分の家は誰も出てこなかった。女性に尋ねると、「私はおなごじゃけん、知らん」と言って調査に非協力的だった。多くの人は尋ねられたら嫌そうな顔をしたり、無視したりした。この人々は仕事中だったからかもしれないが、農村の人は快く応じてくれると思っていた自分は裏切られてしまった。生産組合長や、区長を訪ねても、冷たく対応されたり、留守だったりと調査は難航を極めた。調査の人数の振り分けは土地の広さだけではなく、田んぼの数で決めてほしい。

 

 

 

以下、内川久保地図からしこ名を摘記

ぬんたいヵ(判読困難)

ひらきだ■(判読不能)

かめじぞう

くう

くやんたい(「く」は「し」ヵ、判読困難)

六じぞう

かんねんさこ

たんのさこ

もちだ

こなごさこ

むかえ

かりまた

うらんた

よしたに

かきうち

うーさこ

しゅうるた

かざはや

かざはい

やなぎむた

おおむた



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