【神埼郡脊振村大畑】

歴史と異文化理解A 夏のレポート

S1-15 1TE96839 片岡亮一

S1-15 1TE96854 辻田真則

 

 

《行先》佐賀県脊振村鳥羽院上大畑(とばいんかみおおばたけ)

《古老》弥富徳昭(いやどみ のりあき)さん(昭和7年生まれ)

《しこ名の一覧》

<田>

・ていた(帝田)

・三百田

・つうさご

・へいばちだ

・じゃぁこうじ

・いらんそこ

・ひだつき

・くらたに

・山ノ田

・みそぎ

・じゃあら(平)

 

<畑>

・ひこさぶ

・つきまがり

 

<谷>

・谷ヶ倉

・一ノ谷

 

<そね>

・大佐古

・高宇土

・西宇土

・のびい(え)

・つねのうえ

 

《当日の行動》

全く見知らぬ地でバスを降ろされた我々には全くなす術がなかった。地図を見ても自分たちがどこにいるのかさえ、わからない。とりあえず坂を登って行くことにした。

それから数分後、我々はようやく人に会うことができた。永渕さんというおばあちゃんだった。永渕さんは玉ねぎをひもでくくる手を休め、不躾な学生の相手をしてくださった。そこでわかったことは、区長さんは入院しているということ。そして、いくつかのしこ名。しかし、あまり詳しくは知らないようで、山口芳人さんという方が詳しく知ってらっしゃるんで、そこに行くといい、と教えてくださった。

しかし、山口さんの家に行くと留守で、再び我々にはなす術がなくなった。そこで、こうなりゃということで、大畑地区にいる人なら誰でもいいということで、再び我々は坂を登り、弥富さんの家へとうかがった。そこで我々は温かいもてましを受けた。まず御座敷にまで上げてくださり、氷入りのコーヒー牛乳まで出してくださった。さらに、弥富さんはとても詳しく知っておられて、みるみるうちに調査は進んでいった。

滞在すること約1時間。調査もほぼ完了し、ちょうど時間もお昼時だったので、そろそろ失礼しようかとした時、そうめんでも食べていかんかとまで言っていただいたが、そこまで迷惑はかけられないと丁重に断わり、弥富さんの家を後にした。

その時、1230分を少しまわっていた。バスが来るまで、約3時間。我々は途方に暮れた。とりあえず近くにあった善信寺というお寺に行くことに。そこでしばらく涼んでいると、突然お寺の人が現れて自然のすばらしさや、その人の実家の長崎の話をした。しまいには、お茶とお菓子を出してくださって、こちらがバスの時間までひまだと言うと、お寺の本堂で休んでいけばいいと言ってくださった。お言葉に甘えて、我々はお寺の本堂で2時間程ごろごろしていた。周りから聞こえてくる音は、川のせせらぎ、せみの鳴き声、そしてなぜか、うぐいすの鳴き声。バスの時間が近づいてきたので、我々はお寺の人にお礼を言って、お寺を後にし、バスを待つためにメインストリートへと出た。

そして、バスにゆられ、現代文明で汚染された福岡の街へと戻った。

 

《村の水利のあり方》

 大畑地区の水田に引く水は、大和町の田中川の支流の水を利用したり、「じゃあらいで」、「のいで」と呼ばれる井堰を利用している。また、これらは単独の水利であり、過去に水争いはなかった。1994年(平成6年)の時の水対策としては、山越しにパイプをつないで水をひきあげるという手段を用いた。しかし、苗を植えなかったというところもある。

 

《村の耕地》

 大畑地区の戦前の良い田では1反あたり約8俵ぐらい、悪い田では1反あたり約4俵ぐらいとれていた。肥料として山の草木を切って入れていた。大畑地区ではあまり良い田はない。その理由として谷のところに田があるため、日光があまり当たらないからだそうだ。

 

《村の姿のかわり方》

 大畑地区には明治時代、1011世帯はあったが、昭和の時には8世帯になり、現在は6世帯しか残っていない。このように過疎化が進んでいる。

 

《若い人に対して》

 農業をしなくてもいいが、村を守ってほしい。そして、老後に農業を少しでもやってほしい。

 

《行政に対して》

 減反するのは行政だから仕方ないと思う。だが、穀物の自給率が低下しているのに、減反するということには矛盾を感じる。



戻る