【神埼郡脊振村一番ヶ瀬上】

歴史と異文化理解A現地調査レポート

S1-15 1TE96650 荒木亮一

S1-15 1TE96654 船越一宏

(服部先生)

《話を聞いた人》

 重松忠吾(大正128月生)

 八谷勝俊(昭和194月生)

蔵戸琢磨(大正113月生)

蔵戸重利(昭和78月生)

 

《しこ名一覧》

<田>

・ナカムラマエ(中村前)

・タケノシタ(竹ノ下)

・ウッツキ

・サガイ

・シニイデ(死イデ)

・ヒロセ(広瀬)

・サンダンガク(三反角)

・ニシノマエ(西ノ前)

・ニシノムカエ(西ノ迎)

・コクボ(甲久保)

・ハヤシノムカエ(林ノ迎)

・ハヤシノマエ(林ノ前)

・ミチノシタ(道ノ下)

・カグラデン(神楽殿)

・ショウヤキ

 

<谷>

・ウソン谷

・ウドノ谷

・スゲン谷

・ナナマガリノ谷(七曲の谷)

 

<山>

・ムカエノヤマ(迎ノ山)

・ヤカタヤマ(矢方山)

・ウラノヤマ(裏ノ山)

 

<関>

・カミイデノセキ(上出の関)

・シニイデのセキ(死イデの関)

 

<水路>

・カミイデ(上出)

・シニイデ(死イデ)

・マエノスイロ(前ノ水路)

・ムカエノスイロ(迎ノ水路)

 

 現地に到着してすぐ区長の家を訪ねたが留守で、次に公民分館長、農業委員、統計調査員の方々の家を訪ねたがそこも留守で、やはり事前にうかがうことを手紙などで知らせておけばよかったと思う。それでも統計調査員の方々と一時にお会いする約束ができた。また親切な方のとりはからいで村の古いことにお詳しい方と会う約束ができた。その方とは役場の近くの村立の診療所で会うことになっていたので、一番ヶ瀬上からそちらの方まで移動して行ったが、一番ヶ瀬上での一時の約束に間に合いそうになかったので、二人別々の行動をとることにした。

村立の診療所の方ではいくつかの名前についての由来を聞くことができた。一つ目は「死イデの関」についてである。昔、この関では人柱が立ったという話が残っているそうだ。また、「ウソンの谷」の「ウソ」とは、ウソという鳥の名前らしい。

一番ヶ瀬下の方だが、大字や小字と同じ名前がつけられている田んぼもある。

西側の境界のことを「堀切」といい、東側には名前はわからなかったが、目印として道端には地蔵があったそうである。このような境界は谷の線の延長上に決められたものだそうである。

また、一番ヶ瀬上の方に戻った方では、一時まで少し時間があったので、約束のある家に行く前に最初行ってもいなかった家を訪ねると、農業委員の方がいらっしゃったので少しお話をうかがうことにした。

そこではかなりの田んぼのしこ名や、山の名前などを聞いた。その田んぼのしこ名などは、「三反角」の由来は織物と何か関係があったそうだが詳しくは分からないとのことだった。

「西ノ前」、「西ノ迎」、「林ノ前」、「林ノ迎」などはその地形や場所、それに川の手前か向こう側かなどで名前がつけられていた。言うまでもないが、川の手前が「前」で、向こう側が「迎」である。

また、一時にお会いした方は、一番ヶ瀬上で田んぼの区画整理が行われた時にその記録をとっていて、昔は田んぼの一つ一つに名前をつけていたが、区画整理後は田んぼを35枚まとめて名前をつけるようになったそうだ。

村での共有地はなく、23人で山林を共有していたところはあったそうだが、確定申告でその山林も各個人個人で境界を作ったそうである。

おととしの渇水の時、どのような対策を行っていたかについて、少しお話をうかがうことができた。低地の方では比較的水はあったそうだが、川より高度が高いところではなかなか水が入らず、ポンプで水を吸い上げたところもあったそうである。また、ひどい場所になると、植え込みもまったくできないところがあったということである。

最後に、村の古老に話を聞いてまわる途中、比較的若い人、それでも4050歳代であると思われる人に話を聞こうと声をかけてみたところ、詳しい話はよく分からないということだった。前に述べた区画整理等により、だんだんと、しこ名というものが過去のものとなり、古い人から若い人への伝達が行われなくなり、このままでは後何十年もすれば、知っている人も今に比べもっと少なくなっているだろうし、悪くすると、全く消えてしまっているのではないかと実感することができた。



戻る