【神埼郡脊振村伊福・久保山】

現地調査レポート

7/11バス組

1TE96870 池松隆敏

1TE96874 江崎智規

(その1)

  石松泰茂さん(伊福区長)の奥さん 女性なので生年不問。およそ6070歳台だと思われる。

われわれは伊福に午前11時ごろ到着した後、まず伊福の区長を務めておられる石松泰茂さんのお宅に伺ったのだが、当日、本人は朝から出かけておられるということであって、話を聞く事は出来なかった。そのかわり石松泰茂さんの奥さんにしこ名のことを尋ねてみたが、しこ名についてなかなか理解してもらえなかった。なぜならあのあたりでは田ん中名前はほとんどその他の所有者の名で呼ぶ(例えば、「……さんの田ん中などと言うように」)習慣があるからである。なんとか説明して聞き出したのが次のしこ名である。

「まえだ」……自宅の前の田ん中

「もやいで」……「〜さんの家のもやいで」と言うそうだが、場所が特定できなかった。

 「きぶね」……石松さん宅の庭から西の方を見て道路がカーブしている辺りの田ん中。但しひれは昔からの字名らしい。

 「かわむこう」……川の向こう側の田ん中

 「げず」……石松氏宅の東方にある田ん中。これは次に行った吉田弘さんの話とも一致している。

こうして石松さんの奥さんにいろいろと話を聞いたあと、「もっと詳しく知っていらっしゃる方はおられますか」と尋ねたところ、「それなら吉田弘さんところに行ってみんね」と教えてくださったので、早速行ってみることにした。われわれは石松さんの奥さんにお礼を言うと、吉田弘さん宅に向かった。

(その2)

 吉田弘さん(昭和4年生まれ、伊福在住)の話

われわれは吉田弘さん宅に着いてすぐに、納屋で仕事をしている古老を見つけて早速しこ名についてのお話を伺った。そこで聞き出した田ん中の呼び名は次の通りである。

「ふちのうえ」

……近くに流れる川に堰が取り付けられているのだが、その堰のことを「ふち」と呼ぶという。そこでその付近からやや上流のあたりの田ん中を「ふちのうえ」と呼んでいるらしい。

「かわむこう」

……石松さんの奥さんがおっしゃったのと同じで、川の向こう側のあたりの田ん中を「かわむこう」と呼んでいるらしい。

「げず、げずのき」

……吉田弘さん宅から南東方向を見て川の向こう側辺りにある田ん中を「げず」または「げずのき」と呼ぶらしい。但し、この二つの名前の位置をどう区別するのかは吉田さんにもはっきりしていないということだった。

「やまだ」

……山の中の田ん中の呼び名。

「うらのたに」

……吉田弘さん宅の裏山にある田ん中の呼び名。

「てんじんどう」

……「うらのたに」の東隣のあたりの呼び名。昔天神様を祀ってあったことからこの呼び名がついた。ちなみに今は天神様は取り壊されて存在しない。

またこれはしこ名とは関係ないが、吉田氏は江戸時代のことについても話してくれた。その話によると、江戸時代この辺りは参勤交代の時に、鍋島氏の行列の通り道だったそうである。ここを通り、二日市の方に抜けて、それから小倉の方に出ていたという。また、お隣の家は鍋島氏に仕える武士だったそうで、佐賀の乱の際には官軍に家を焼かれたそうである。

われわれは吉田さんに熱く御礼を述べると出発し、ひとまず昼食をとって午後1時ごろまで休憩を取った。午後1時ごろ再び調査を開始したわれわれは、今度は久保山地区を回ってみようということで、まず一番ヶ瀬十郎氏宅にたどり着いた。早速訪ねてみると、中から齢70位の古老が出てこられた。われわれは早速しこ名を尋ねた。

 

(その3) 川副清治さん宅の古老(70歳位、久保山在住)の話

彼の話を聞くと、やはり「しこ名」=「字名」、または「所有者の名前」と思うらしく、いかにこの土地の人々の田ん中の読み方が、字名にとらわれているかが分かった。あえて聞き出せたのは「まえだ(家の前の田)」だけであった。後で聞くと、彼はこの日夜勤明けでこれからいっぱい引っ掛けて寝ようかとしていたということで、大変申し訳なく感じた。また、あまりしこ名を思い出せなかったのもこのためであったようだ。しかし彼は親切にこの周辺の地名に詳しい方が田中地区にいらっしゃるのだが、今日は脊振神社で飲み会をやっていると思うからそこに行ってみると良いと教えてくださった。残念ながら距離的にも時間的にも困難であったため、諦めて他の家をあたることにした。

次に訪れたのは、伊福の生産組合長をなさっている吉田博孝氏宅であったが、不在であり帰って来るのは夕方頃であるということだった。そこで、諦めて次の家を探した。後で水田商店の方に聞いたことだが、この日は脊振山の山開きの日であり、脊振村の主だった人たちは、皆脊振神社に集まってそうめん流しをやっていたそうである。そのため、調査のほうも不在の家が多く、困難を極めた。

 

(その4) 吉田次郎さん(明治41年生まれ、88歳、伊福在住)の話

次にわれわれは吉田次郎さんのお宅にお邪魔した。ご本人は耳が遠かったのだが奥さんが通訳をしてくれたので大して困らなかった。村議会議員を務めていたこともあるそうで期待していたのだが、残念ながらこれまでと同様に字名で田ん中を呼ぶ習慣が根強く、これといったことは聞けなかったが、次の呼び名はしこ名ではないかと思われる。

「きたむき」……吉田次郎さん宅の裏山にある反中の呼び名

また、山の所有者であることから林業を中心になさっていたようである。しかし、現在では安い輸入材木が多量に日本に入ってくるようになり、もう林業どころではないと嘆いておられた。農業中心にやっておられるのはそのためではなかろうかと思われる。

この後、伊福の農業委員の一番ヶ瀬進さん宅を訪ねたが不在であった。諦めて伊福バス停そばの水田商店でお話を伺っていると、 村議会議員の徳川政海さんがこの辺りの地名に詳しいと教えていただいたので、さっそく伺ってみたのだが、山開きの飲み会から帰ってきたばかりで酔っており、取材を拒否されてしまった。

結局この日は脊振山山開きの日と重なってしまったために不在の家が多く、調査が満足に行なえなかったのと、昔から所有者の名前や字名で田の呼び分けを行う習慣があるためにしこ名が存在しにくい状況となってしまったという2つの点で、収集不足と言う結果に終わってしまったのである。



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