【神埼郡脊振村服巻・大作(オオサコ)

歴史と異文化理解A 現地調査を終えて

1TE96853 田内宏明

1TE96848 茂藤智之

僕たちが今回訪れたのは脊振村の腹巻の「大作」というところでした。到着してすぐに畑仕事をしていたおばあちゃんにしこ名について聞いてみると近くの家に嫁いだのではなく昔から住んでいる人がいるからその人に聞いてくれと言われました。

その人のところに行ってみると話を聞いてみると、それらしきことは2,3個聞きましたが、大作についてのものがなく、他の詳しく知っている人を教えてもらい尋ねました。その人が高木茂義さんでした。

その人は大正2123日生まれのおじいさんで、その周辺では村についてかなり詳しい人だそうでした。しかし、前に聞いたおばあちゃんもそうだったけれど、しこ名という言葉の意味をすぐに分かってもらえませんでした。だいたいこういうものだという説明すると、10個程度教えてくれましたが、それ以上はないと言われました。理由を聞くと、この辺りは村人個人のものが少なく共有のものであったため、そういったしこ名などは村人の中でもあまり使われなかったそうです。

もう一つ分かってもらえなかったのは「大作」を「タイサク」と言って尋ねても、「開拓」としか聞こえないみたいでした。なぜならば、それは「大作」ではなく「大迫」らしいのです。高木さんがおっしゃるには、「大作橋」も元は「タイサクバシ」と書かれていたらしいのですが、高木さんが役所に行って「おおさこばし」と変えさせたそうです。しかし、地図にもご丁寧にひらがなで「たいさく」と書かれており、村の人以外は「たいさく」と呼んでいるみたいです。

問題のしこ名についてですが、教えてもらったのは田んぼのしこ名については、

ウラタ

モンノウチ

イケタ

イコイバ

キビウノ

クボタ

ハシヅメ

オオムカエ

スゲタニ

ジヌシノマエ など。

山については

 タノウド

今は空き家になっている家については

 カミヌマエ

 タイカシラ

 ナエシロダ

 フルアン など

以上のようなしこ名が出てきました。

イケタは、60年前に大洪水があり水没したところで、イコイバは、昔武士が城に行く途中や帰る途中に立ち寄った茶店のあったところで、その名前がそのまま残ったところだそうです。

またフルアンは「古庵」と書き、村の山の中腹に薬師如来のある庵があったことからフルアンと呼ばれるようになったらしい。

高木さんの本家はこのあたりでは有名な地主で、高木さんの今の家の前に広がる田んぼのしこ名は、そのまんまジヌシノマエになったそうだ。ちなみにその本家は戦後の農地改革により土地を取られて落ちぶれたそうだ。

一昨年の大渇水では全国的に水不足に悩まされ世間を賑わせたが、少なくともこの脊振村の服巻の大作では、井戸水や城原川の水が豊富にあり、全く水不足と言うことはなかったらしい。

この井戸水は通常より10メートルぐらい浅い地下15メートルの所から湧き出るきれいな水であり、その水で作ってもらったコーヒーは味が違うような気がした。また水源の水は夜間に降った雨が谷に流れ出て、その谷の水を使っているそうだ。この上質の水でできた米は下の平野部でできた米に比べても、かなり美味しいらしい。しかし、いかんせん田んぼの面積が小さく、量では勝ることができないと言っていた。

僕たちが訪れた高木さんはしこ名の話もしてくれたが、その他にも村の話や戦争の話など僕たちの知らない多くの話をしてくれた。高木さんの家の裏には昔お城があったらしく、その周りからは歴史上の文化財となりかねないものがよくあるが、そのために道路工事が止まるのを嫌がっている。

また、この村の水が豊富な原因の1つである山の木を植えたのは徳川という村長だったらしい。彼は村の未来を考えて植林に励んだり、その他にも村のために働き立派な村長だと言っていた。

大作の南に「大作開拓」というところがある。そこは戦後田畑がなくなった人たちが食料を求めて開拓したところであり、その人たちの苦労は改変なものであったらしい。その村に昔から居た百姓たちは、田んぼを持っている分開拓をしていた人より生活は良く、町から食糧を求めてくる人たちと懐中時計などの品物と交換して米を渡していた。いわゆるヤミ米である。高木さんもそんな大変な時代を生きたらしく、僕たちにも使えることの大切さを訴えていた。また、食べ物を大切にして生きてきた人たちなので、飽食の今の時代の贅沢さに腹を立てており、僕たちに食べ物を大切にするようにとも言っていた。

この村の問題は何といっても過疎化で、町から土地の安さなどで若者を呼ぼうとしているが、一方で村を離れる人も多く、高木さんが心太のようだと言っていたのが印象深い。高木さんは自分たちが死んだ後の村の将来についてとても心配していた。

高木さんのところには京都大学、広島女子大学、佐賀大学などから文化遺産や方言などの調査に来る人がいるらしく、僕たちのように村について少しでも多くのことを残しておこうとする人にとても協力してくれている。ただのしこ名調査のつもりでしたが、悩める村の現状に触れて考えさせることも多かった。



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