【神埼郡脊振村一谷】

歩き、み、ふれる歴史学 現地調査レポート

吉川玖仁子

〃 1AG95262  山元 奈美

7/11実施

脊振村一谷の小柳テルさんを訪ねました。小柳さんは大正13年生まれで、つい最近まで福岡にいられて、今はここで弟さんの子どもさんと暮らしていられるそうです。

 

1 小柳テルさんに聞く

@ 田んぼのしこ名

 ゾウメキ

 カモン

 フルミョウジン(古明神)

 ゴタンボ

 カッポウ坂

 山口(すごく広い)

 タケミズバル(竹水原)

 フジノオ(藤尾)

 キタダ

 ハッタ

 ヤブウチ

 ニシノフカタ

 前田(一谷の前にある)

 ヤマンシタ(山下)

 ウドンツジ(宇土辻)

 ミチンシタ(−下)

 カキウチ(垣内)

 ムカエンツジ(向かえ辻)

 ムカエノタニ(−谷)

 ウエナッコチ

 中川内

 ナカオサキ

 ナッコチ

 シタナッコチ

 ヒヤゾエ

 ジャアゴンボウ

 ツバキノウド

 トウノド

 ウージモ

 ヨウージモ

 下ウージモ

 アラシエ

などがありました。

※小柳さんと原さんとで田んぼのしこ名が違っていたのは、ジャアゴンボウ、トウノド、ヒヤゾエ、ゾウメキです。

A 畑のしこ名

 次に畑のしこ名について聞きました。

 ガル石()

 御番所

 ムカエノツジ

 アカイシ(赤石)

 ニシノ尾()

  アカハゲ

B 山のしこ名

 藤尾の山

 テンパイ山

 ウシロ山(一谷のうしろにある)

 タヌキノ山

 ツツミノ山()

 高尾()

などがありました。

 

2 当日の行動

8時半に学校を出発しました。市谷には11時前につきました。訪ねることになっていたお宅に出したはがきには11時ごろに行くことになっていたのでちょうど良かったです。まず、小柳照さんのお宅を訪問しました。声が李さんはつい最近まで福岡に居られたのですが、今は弟さんの子供さん2人と一緒に出していられるそうです。マニュアルに下がっていろいろな質問をしました。小柳さんは事前にいろいろと調べておいてくださったので、すごく詳しく教えて下さいました。それにても気さくな人だったので尋ねやすかったです。お昼にはお味噌汁を後世にありました。お弁当は持参していたので。他にも、この辺のことや、世間話をしてとても楽しいひとときが過ごせました。

次に原キクノさんのお宅を訪問しました。

 

1 原キクノさんに聞く

 脊振村一谷の原キクノさんを訪ねました。原さんは大正15年生まれです。原さんも小柳さんよりはすくなかったですが、田んぼの四股名や山の名前などを教えてくれました。まず田んぼの色四股名は次のとおりです。

田のしこ名

アラシェ、

弁田石(ママ、牟田石ヵ)

ウージモ、

中川内(ナッゴチ)

ジャアゴンボウ、

トウノド、

ヒャアッソエ、

ミヤノドウ(宮の堂)

ガルイシ(−石)

フルミョウジン(古明神)

アカイシ(赤石)

ナガタニ(長谷)

ゾウメキ(作米木)

バンショノハル(番所の原)

ナカヤシキ(中屋敷)

カマフタ

などがありました。

畑のしこ名

 タキミズバル(滝水原)

 カモン山

 タカオノ山

 向かえん述(ママ、辻ヵ)

このうちタカオノ山は村有だそうですが、このあたりでは私有の山より村有の方が圧倒的に多いそうです。また、村のそばを流れている川は、シーゴン川と言うそうです。岩や谷などは、この集落ではあまりしこ名をつけるといった習慣がないとのことで、調べることは出来ませんでした。

一谷では、田んぼに使う水の湧き水を使っているそうです。昔は一谷でも乾田と湿田が入り混じっていたそうですが、全部埋め立ててしまって、今では乾田しかないそうです。湿田があったところは田植えをするとき、皆腰まで埋まって田植えをしていたそうです。

また、戦前は肥料は硫安しかなかったそうです。そのため、出来高は今の2分の1以下だったそうです。今では反当たり7から8俵も取れるそうですが、昔は良い田でも3俵、悪い田では上あたり1俵半から2俵しか取れなかったそうです。

区長さんのお宅で区長さんは唐津の原発の視察に行かれていたので、奥さんが代わりに質問に答えてくださいました。小柳さんほど多くはなかったけれど、色々と教えてくださいました。けれども、しこ名が結構違っていました。

原さんのお宅では早く終わったので、バスの時間まで時間がかなりあったので、一谷では有名な地蔵さんにお参りしたり、そのあたりをぶらぶらしたりしました。一谷から伊福の前まで歩きました。山と田んぼばかりで本当に何も無かったけれど、こういうところで住んでみるのもいいなあと思いました。暑かったけれど、色々と勉強になったので良かったです。

一谷

                     この辺まで歩きました。

中屋敷           

伊福

 

3水利について

水田にかかる水は、山の湧き水を利用しているとのことでした。

 

4村の範囲について

小 柳さん、原さんともはっきりと村の範囲は分かりませんでした。また、村の共有の山は高雄の山というところで、一谷のちょうど手前の山です。

 

5村の耕地

一谷では、田に使う水の湧き水を使っていたそうです。

昔は一谷でも乾田と湿田が入り混じっていたそうですが、全部埋め立ててしまって、今では乾田しかないそうです。

湿田があったところは田植えをするとき、皆腰まで埋まって田植えをしていたそうです。

また、戦前は肥料は硫安しかなかったそうです。

そのため、出来高は今の2分の1以下だったそうです。

 

市谷は今も昔もあまり変わっていないそうです。しかし、若い人がみんな都会に出ていいたため、老人が二人でひっそりと暮らしているというのが多かったです。子供は今三人しかいません。農業は兼業農家、またすべて機械でやることが増えたそうです。



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