【杵島郡大町町下大町】

歩き、み、ふれる歴史学 現地調査レポート

1LA96100 重宗 尚文

1AG96135 辻田 忠志

調査日 19961221()

話者:森 勇さま(50)と奥様

   古賀正己さま(83)と奥様の古賀マスエさま(86)

 

 

<しこ名一覧>

・森 勇さま

下大町

しこ名一覧

・ワタイ、カラミ、ガイキ、ロクタンカク(六反角)、ハッタンカク(八反角)

田畑

小字

カメカブリゴモリ(瓶冠篭)

ワタイ、カラミ、ハッタンカク(八反角)

シンムラゴモリ(新村篭)

ガイキ

イッポンマツゴモリ

(一本松篭)

ロクタンカク(六反角)

 

・古賀正己さま、マスエさま

下大町

しこ名一覧

・ツブテ、ヨンノカク(四の角)、ゴノカク(五の角)、ロクノウチ(六の内)、イマイズミガラミ、ヒガシガラミ(東ガラミ)、イキノエ、フタマタエ、アラキ、イシイデ、フタツバシ、ウメノキガラミ、オオハゼノキ、マツバイデ

田畑

小字

フカエゴモリ(深江篭)

オオハゼノキ、マツバイデ、ウメノキガラミ

イッポンマツゴモリ

(一本松篭)

フタツバシ

カメカブリゴモリ(瓶冠篭)

イシイデ、アラキ

シンムラゴモリ(新村篭)

イキノエ、ツブテ、ヨンノカク(四の角)、ヒガシガラミ(東ガラミ)、ゴノカク(五の角)、ロクノウチ(六の内)、フタマタエ、ガイキ、イマイズミガラミ

ニホンクロギ(二本黒木)

しこ名は収集できず

 

 

1.一日の行動記録

0700 起床、重宗にモーニングコール

0800 薬院駅にて合流、電車に乗る

0900 下大利駅にて白川、庄司、武宮と合流。車でゆめタウンへ向かう

0930 ゆめタウンにて棚町と合流

1200 肥前山口駅に到着。白川、庄司、武宮、棚町とわかれる

1210 森氏宅に到着

1320 森氏宅を出発

1330 古賀氏宅へ到着

1440 古賀氏宅を出発

1500 他の4人とジャスコで合流

1510 他の4人の手伝いに行く

1700 再調査を終え帰路につく

1900 ゆめタウンへ到着

1920 都府楼駅で別れる

2000 薬院駅へ到着

2030 自宅へ到着

 

2.今回調査に協力してくれた方のプロフィール

・森 勇さま(50)

昭和21年生まれ。専業農家<米(ヒノヒカリ)、いちご、麦etc

元杵島農協大町支所 平成7年度下大町第三生産組合長。とその奥様。現在、いちごの出荷時期でお忙しいようだった。

 

・古賀正己さま(83)

大正2年生まれ。元大町町町会議員。元区画整理実行理事長。息子の正之さんは平成8年度下大町第四生産組合長。奥さんのマスエさま(明治43年生まれ、86)。息子さんのお話は伺えなかった。

 

3.由来の分かっているしこ名、あれこれ

・ワタイ…六角川の渡し船(下大町〜馬田部落)があり、これがなまったものである。

・〜カラミ…昔は畑や川や沼地であったものを田に変えた時につく。またその広げる行為そのものも、カラミをするorカラむという。

・ガイキ…六角川(塩水?)から上陸してくるガイ(カニ)によって米が食われた為についた。ちなみに佐賀にはガンツケというカニをつぶして唐辛子と和える郷土珍味がある。私の祖母はよく作っている。

・ロクタンカク、ハチタンカク…ただ単にちょうど六反、八反あったから。

・ウメノキガラミ…梅の木があり目立っていたから。

・オオハゼノキ…大きなハゼノキ(ロウソクの原料)があったことから。

・シンムラゴモリ…昔ここは北、東、南を囲んで流れている六角川に囲まれておらず、この地区の西側を流れていたそうだ(図省略)。つまり白石町に入っていたわけで、大町町ではなかったのだ。だから新村というらしい。この蛇行は佐賀で有名な治水事業を成し遂げた成富兵庫茂安の業績の一つである。

 

4.干ばつの対処について

 一昨年は干ばつがひどかった。ポンプ当番をつくり水田の見回りをさせ、水が不足しそうな水田に水を入れるようにした。話し合いも開かれた。

 

5.水害について

 大正時代に大水害があり下大町一帯、特に新村篭が水浸しになった。六角川は塩分を含んでいるため被害はより大きくなった。特別な対処法はなく水がひくのを待つしかなかった。現在では水害はほとんど起きず、水を汲み出すポンプも設置されている。しかし大町近辺にはまだポンプは設置されておらず申請中。

 

6.炭鉱について

 大正7年に開かれ昭和44年に閉山された。最盛期には大町町の人口は44千人だったが現在では8千に。小学校の生徒数も最大で4千人と日本一多かった。掘り出された石炭は帆船に乗せ六角川を下り、住ノ江まで運ばれた。

 

7.現在の水田の呼び方について

 人の家を基準にして前、裏、東、西などをつけて呼ぶことが多い。(ex.三好東、…ウラ、小野さん方の前)基準がない所では今でもしこ名が使われている。しこ名がもとから存在しない所もあり、水田に住所のように番号がつけられ区別されていた。

 

○感想

・アポイントは2名しかとらなかったが、お二人ともたくさんのしこ名をご存じでとてもスムーズにしこ名が収集できた。また、古賀さんは大町の長老で、大町の町議会の元議員でもあった。大町の歴史に大変詳しく大正の水害のことや今はもう閉じられている炭鉱のことなどを聞くことができてためになった。

 大町での調査は順調だったが、棚町・武宮の調査した地域ではしこ名を知っている方が病気で入院していたり仕事が忙しいために全く相手にしてもらえなかったりしたらしい。また、白川・庄司の調査した地域ではしこ名が過去に使われず、住所のような番号をつけて水田が区別されていたらしい。この事を考えると順調に調査が進んでラッキーだった。(重宗)

 

・佐賀と言うと私の実家であるが、祖母が白石出身である為に意外とこの土地にはなじみ深く、調査しやすかった。もとをたどれば今日までこぎつけるのにリーダーとしていろんな苦労もあった。地図が初めからない。コピーをせねば。先生の所へ行く。コピーをするコピーをする。メシが食えない。腹へった、という日あり。5階の部屋まで駆け上がって探すが見当たらない。…ということがあり、かなり参った。しかし、今日佐賀にきて一通りなんとか終わることができ、ほっとした。たまたましこ名について知っている方がおられ、アポがしっかりとれて、さらに色々なおもてなしまでして頂き申し訳なかった気がする。だが現地の方の優しい心遣いというものにふれると、何か心にジンとくるものがあり、そこから話に拍車がかかっていた。はっきり言って人が思う以上に有意義な時が送れたと思っている。さらに自分が農学部であることで、日本の農業というものの実態を知った気がした。自分の生き方をまた問われた佐賀調査だった。

 また、行き帰りを共にした、他の4人は散々な様子で、白川・庄司組は歩くだけ歩いて、収穫はしこ名が存在しないということだった。それが一緒に調査して分かった。詳しくは彼等のレポートで。

 さらに武宮・棚町組はしこ名を知る方が病気だったり、相手にして頂けなかったりしたが、他の方はみんな上記の方たちを挙げるという悪循環だった。僕は地元に住んでいたので、このグループを手伝ってはみたのだが本当に困難を極めていた。しこ名を聞く=長老を探すことは意外に難しく、僕らみたいにトントン拍子では行かないのではないだろうか。(辻田)



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