【杵島郡大町町大谷口上、中島】 中世の村と人々 現地調査レポート 高橋 祐二 犬丸 憲二 西村 將生
〜しこ名を求めて〜 話者:石橋 殊一さん(大正10年12月生) 石橋さんの奥さん(大正12年12月生) 中島 松次さん(大正5年生まれ 78歳) 島 初男さん(大正12年生まれ 72歳) 千綿 義次郎さん(昭和9年生まれ 61歳)
8時15分 九州大学六本松に集合。 8時45分 いざ佐賀へ。(渋滞のため三瀬峠経由で) 10時30分 とりあえずバスを降りた。予定よりかなり遅れていて、皆焦っていた。まず近くの信用組合に行って大谷口はどこかを聞いた。先生が「オオヤグチ」と言っていたのでそう聞くと、「オオタニグチ」だよと言われた。組合の方はなかなかの美人さんだった。 11時 巡回中のパトカーに捕まった。警官は怪しげに僕たちに近づき、事情を聞いてきた。えらく威張っていたが僕たちが九州大学生だということを知ると、急に敬語に変わった。何か嬉しくなった。 11時30分 第一の目的である大谷口上の石橋殊一さん宅に着いた。お茶とお菓子を食べながら、石橋さんにいろいろと話を聞いた。
<大谷口のしこ名一覧> @耕地つつみ、一番上のつつみ A井手の上(神)「イデノカミ」 B仏法つつみ、仏法 C一段つつみ D二段つつみ Eジョウゴンタニ F男つつみ G女つつみ H三段つつみ その他:椿原 「ツバキバラ」 本町→「ドンダ」
*しこ名について 明治・大正・昭和という時代の移り変わりとともに、小谷口の地形・農作物・鉱業も激しく変わっていった。以前は田が広がっていた山の麓には多くのしこ名あったそうだが、田は畑へと変わり、そのしこ名を知る人も数少なくなっていった。村の人が集まる場があっても、めったにしこ名で呼ぶ事はなかったそうである。石橋さんは「あと5年早く調査に来ていれば詳しい人がまだ生きていました。」とおっしゃっていた。 *村の農作物の変化 石橋さんの家までの道路の両脇はすべて田んぼであったが、今では畑に変わっている。畑ではみかんやブドウを作っていた。世代が変わる時に農作物も変わる、と石橋さんはおっしゃっていた。 *渇水時の対策 「一番上の堤」から道路沿いの水道使って、福母宮浦溜池へ水を流して、小通りの村(大谷口下、中島)へ水を引いた。昔水不足を心配した現地の人々が、耕地組合(大正3年)を作ってため池や水路を確保して来たので、昨年の渇水も全く影響なかったそうである。 *炭坑の歴史 明治22年 中山りゅう一さんが発見 大正7年 中島鉱業株式会社 大正15年 高取鋼業株式会社 昭和4年 杵島(きしま)炭鉱…最盛期では従業員4,000人→閉山
話を聞き終わった後、奥さんが「昼飯持ってきたんかい?」と聞いてきたので「いいえ」と僕たちは答えた。(実は持ってきていた。)すると寿司が出てきた。とても美味しかった。(奥さん嘘をついてごめんなさい。しかもお名前も聞きそびれた。)
12時50分 石橋さん宅を出た。しかし雨が酷かったため石橋さんが次の目的地、大谷口下の中村博次さん宅まで送ってくれた。ところが中村さんは病気で話しができる状態でなく、また急病だったため代わりの人を考えていなかったらしく、この大谷口下のことは聞けなかった。石橋さんは昔地方公務員をしていたので、きちっとしていないと気が済まないそうです。近所の人たちに昔のしこ名のことを尋ねてみたが誰一人として知る者がおらず、結局大谷口下の情報収集は失敗に終わった。(だから、大谷口下のことは大目に見てください。) 1時50分 第三の目的地中島で、中島松次さん(78歳)島初男さん(72歳)千綿義次郎さん(61歳)たちに会った。訪問した家は千綿さん宅であったが、1人ではできないということで、中島さんと島さんが手助けに来てくれた。僕たちはそこで3人のお話を聞いた。
<中島のしこ名一覧> @「シマ」…以前海で、周囲が海水に囲まれた陸地ということで名が付く。 A「シンシュク(新宿)」 B「ヤマソ」 C「ツツミンナカ」 D「ホッカイドウ」…離れているから。炭鉱の納屋があった。 E「センバ」 F「レンガヤマ」…昔、競馬場があった。 G「シマノツツミ」…昨年はここから水を引く。(水不足ではなかった) H「カブトヅカ」…昔、古戦場だった。 I「スラセ」…炭坑があった。ボタ山があった。→「ボタ」 J「シャドウミチ」…石炭を載せたトロッコを馬に引かせた。六角川沿いに船着き場があった。 K「ヒラキダ(開田)」…開拓したため。 L「ハンドンバシ」 M「クラガワ(倉川)」 N「ミョウジンサン」…潮見大明神 12月15日 祭…昔は子どもも参加していたが、大人だけの祭りになった。 8月21日 子どものお祭り…学校を早退できる。 O「サナツボ(眞坪)」 P「イバ」…川のまわりの権利。 Q「テンジンサン」…祭ってある。 R「ダイスケワタシ(大助渡)」六角川を渡る…大渡にかわる。潮がひいた時、船を並べてその上を歩いた。渡し料2銭。石炭、肥しなども運ばれる。
*しこ名について 中島では田んぼがまだ残っていたため大谷口よりは多く聞けたが、使う人が少なくなったため、かなり忘れられていた。今でもしこ名で呼ぶこともあるらしい。 *渇水時の対策 ため池は管理されていて(水利権がある)、5月から雨が降らない時に35時間使うことが許されている。現在も契約書がある。水利権のことで争いが起こったこともあった。戦後は、水車で水を上げた。大町町と北方町には多くの水路が付設されてある。昨年は浦田三段溜池(シマノツツミ)から水を引いたため、水不足にはならなかった。 *田んぼについて 干ばつにより全ての田が乾田となった。圃場整備以前は高低差があった。昨年の反収は9俵だった。 *肥料について 戦前…大豆カス、にしんのしめカス、農薬の代わりに灯油(虫ころし) 戦後…化学肥料、川のヘドロを乾燥させて肥料にする。 *六角川について 満潮のとき逆流するが、しないようにまねき戸「マネキン」が使われる。(図アリ 省略:入力者)2m90cm以上になると危険水域である。潮の干満を利用して、櫓漕ぎの帆掛け船が武雄(高橋)まで上っていた。満潮になるまで待たないといけないので、わざと川を曲げている。(図アリ 省略:入力者)このことで六角川は有名である。
15時 別れを惜しみながら僕たちは千綿さん宅を出た。 15時20分 ガソリンスタンドでちょっとトイレ休憩。 15時30分 1号車が来たので僕たちが乗る予定の3号車(16時に乗るはずのもの)に乗らずに、このバスに乗せてもらった。たくさんの人たちが乗っていて、みんなとても疲れた様子だった。僕たちもとても疲れていたので熟睡していた。 17時 九大六本松に到着。皆さんお疲れ様でした。
最後に犬丸、西村、高橋がそれぞれ感想を書きます。
<感想> この地方の歴史を深く知ることができて良かった。時代の流れによって土地が田んぼから畑へ、また田畑から住宅へと変わり、昔からみんなで呼び合っていたしこ名が消えつつあるのはとても寂しい気がする。しかし、今日訪ねた人たちは、昔を懐かしみ思い出に浸りながら、とてもうれしそうに僕たちに話してくれた。 (高橋) 今回のレポートでしこ名を知るために佐賀まで行くことになったが、しこ名はみんなで呼び合っていたあだ名のようなものであったため特別な記録もなく、また田んぼが果樹園や畑に変わり、果樹園や畑は宅地や商店街に変わってきたという歴史の中で、使う人たちも少なくなったためほとんど消えてしまっていた。しかし、お年寄りと話すことができ、町の歴史も少しは知ることができて、とても良い機会をもてたと思う。 (犬丸) しこ名を求めて佐賀まで行った。時代と共に農作物、土地利用、そこに住む人々などのいろいろな変化があって、しこ名も姿を消していたようだった。聞き取りをするのは初めてで、無計画なところがいくつもあった。整理されていない僕たちの質問に対して、お年寄りの方々はとても優しく、わかりやすく教えてくださった。しこ名はあまり多く集まらなかったが、お年寄りとお話が出来てとても嬉しかった。 (西村) 追伸 しこ名をあまり聞くことができなかったためマニュアル以外のことも記載した。これは決して要旨を間違えて取ったわけではないのであしからず……。 高橋祐二、犬丸憲二、西村將生 |