吉田周辺

田中 則之

古老名  鮎川 貞光さん  (不在のため、北浦の南里さんから紹介していただいたカサハラさん(83)から聞きました。)

 

 

      画像略

 

しこ名の由来   田     かわむこう← 川のむこう側

               みちうえ ← 道の上側

               みちした ← 道の下側

               たからまえ← 高原の前

               まちうら ← 上町の裏側

 

         山     みずのて ← 城山から水が流れてきて事から

               あけぐま ← 不明

               はちまんさん←「はちまんさん」が祭られて

                       いる場所があるから

         

         村     よしだ  ← 吉田(吉田の中にはしこ名は

                         なく全て「よしだ」と 

                         呼ぶ」)

 

当日の行動 

    

    まず、吉田の古老の鮎川貞光さんをたずねたところ、不在だったため

    ひとまず北浦の南里次郎さんをたずねました。そこで北浦のお話をう

    かがった後、吉田の事をたずねたところ、カサハラさん(83)を紹

    介していただき、吉田へ向かいました。しかし、かさはらさん宅を訪

問したら、「今手が離せない」と奥さんに断られ、吉田の家のほとんど

を回ってみましたが、有力な情報を得ることはできませんでした。と

ころが、最後にとたずねた農業事務所の人が、カサハラさんに電話

でコンタクトをとっていただき、無事お話を聞くことができました。

カサハラさんは学校の校長先生だった人で、吉田についてはかなり詳

しかったです。(手がはなせないというのは“ならづけ”をつけていた

ためだそうです)吉田を終了した後、清水・原田をまわっていた車組

と合流し、焼山をまわり、調査を終了しました。

(千葉城跡や千葉氏の館跡も行ってみましたが有力な情報は得ること

 ができませんでした)

 

吉田(鮎川さん宅)→千葉城跡→北浦週辺→北浦(南里さん宅)→

千葉氏の館跡→吉田(かさはらさん宅)→吉田周辺→かさはらさん宅

→焼山→帰宅

 

 

水について

  この周りの田はほとんどこのあたりから水を引いているそうです。

“みずのて”について

  “みずのて”の上には千葉城跡があり、当時、お米をといだ水が

  “みずのて”のあたりに流れてきていたそうです。その水はお米

   をといだとあって白くにごっていたそうですが本当にお米をと

   いだ水なのかはさだかではない。

千葉城について

   カサハラさんによると、千葉城跡から少し離れた所に平らな場

   所があり、そこから多数の食器がみつかり、それは朝鮮のやき

ものだという事です。そこが本当の千葉城跡かもしれないとお

       っしゃってました。(全て推測だそうです)

    川についてのおもしろい話

       この川は鍋島藩の本藩(上)と小城藩(下)を分割していた川

       で、力の強かった本藩がこの川の北側(本藩側)に大きな岩を

       投げ入れ自分たちの領土を広くし、またその岩のため、川の流れが小城藩の領土をけずりとったそうです。

感想

  とにかく暑かったです。日かげですずもうと思っても日かげがなく、遺跡

  の木かげで休けいしたりしました。又、公衆電話や自動販売機がなくてと

  てもこまりました。

  また、吉田や北浦周辺は田畑が少なく、しこ名も多くは存在しないようで

  す。しこ名は現在使う人はほとんどおらず、知っている人でもわすれてし

  まって思い出すのに時間がかかる状態でした。又、吉田の人は北浦のしこ

名は全く知らず、その逆もそうでした。すぐ近くなのにとても不思議でし

た。このようなしこ名は残っていてほしいし、この調査は意味のあるもの

だったと思います。



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