現地調査レポート/小城郡小城町/寺浦

 

<「寺浦」という地名の由来>

 昔、この地区は寺が多くあったらしい。

 従って、しこ名も寺にちなんだものが多く、史跡も多い。

 

<しこ名の由来>

 大門(だいもん) 昔、大きな寺の門があった周辺の地区がそう呼ばれるようになった。

 ふかまち     豆腐屋の町

 みつがい     道が3つに分かれている交差点付近の地区

 

<水利のあり方>

「おおくら水路」という大きな水路が通っていて、そこから何本かの細い用水路が田んぼの中に通っている。「おおくら水路」は中村、かわら、庄、西の谷、でぐん、はたけだ、黒原(くろばる)、砂田(いさこだ)、円光寺などの地域で、利用されている。水路の水は田んぼで利用されているので修理などは、その付近の田んぼの所有者たちが行うことになっている。

つつみと呼ばれるため池は、昔、円光寺という寺のため池であっただろうといわれているが、水利権が厳しい。水路の水とつつみの水を混ぜてはいけないときまりごとが、石に彫ってある。

水門の管理は部落の生産組合長(生産の中の長でお世話係)が行っているが、大雨で水量が増加したりしたとき、水門を開閉する人は別らしい。

1994年(平成6年)の水不足対策としては、おおくら水路から分かれた水路の末端にあるような田んぼにまで水が行くように、おおくら水路から枝分かれしたいくつかの用水路で日割りして順番に水を通すようにした。その結果、不作どころかこのあたりではむしろ豊作であったらしい。もし30年前であったなら相当被害が出ただろう。

昭和14年にも大かんばつがあったが、晴気川には水があったので八丁ダムから水を引いた。それでもかなりの被害があった。1994年のかんばつでは晴気川の水すらなかったことを考えると、それが30年前であったら大飢饉になっていたことが予想される。

 

<村の耕地について>

五反田は湿田で、麦がつくれなかったので米のみを作っていた。従って米の収穫高はよかった。へんみだは、比較的地力がないが、他と2〜3俵の差くらいで取れ高には対して影響はないらしい。戦前の肥料は一反当たりいくらかで配給されていた。草をすきこんで田んぼに入れてみた。

 

<寺浦の昔と今と変わった点>

一番大きな変化は、後継者がいなくなった点である。原因を推測すると、昔に比べて反数は増えているにもかかわらず、基盤整備がすすみライスセンターなるものができ、取れた米が2〜3俵増えても、百姓のふところに入る金は変わらないので、労働意欲も湧かないし、専業ではとてもやっていけないと言う点にあるという。その証拠に、寺浦地区での専業農家は一軒だけである。また、それに従って農業従事者の高齢化が進んでおり、一番若い人でも40代だそうである。

 

<これからの農業について>

あまりの激変に、これから先のことは見当がつかない。田んぼの宅地化がすすみ、昔40人で25町(1町=10反)あったのが、今は15町をきっている。(日本では1人4〜5反が普通)。今、減反、減反と叫ばれているが、国はある程度の農地を確保すべきである。法改正で減田が進み、小さい農家では農業を捨てるところも出だしている。規模拡大と国はいうが、空いた農地は誰かが作らなければならず、一軒当たりの農地が増えているだけのことだ。国はもっと現状を把握したうえで、画期的な政策を打ち出すように期待している。(於保 亮三さん  65歳)

 

<レポートを作成しての感想>

この話を聞かせてくれた於保さんは冬にみかんをつくったり、木酢や炭を田にまくことで、農薬を減らすことを研究したり、非常に熱心な方だった。また、昼食に自分のつくった米をごちそうしてくれた。とてもありがたかった。佐賀の米はやや小粒だがおいしかった。いろいろ細かに説明してくださった。



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