佐賀県小城郡小城町

現地調査場所   大塚

         江里山

         江里口

         馬場

調査実施日    平成8年7月6日(土)

 

 

レポート提出者  理2−27

         大原 寿美子

         大部 梓美

         緒方 由香

                  金出 美砂

 

 

<調査場所 大塚部落>

お話をうかがった方……荒川貞俊さん(昭和5年生まれ)

 

@         しこ名について

    しこなは田の持ち主の名前やその土地のあざ名に由来してつけられ   

    ている。この方は“しこ名”ではなく“あだな”と呼んでいた。

    うかがったしこ名は地図に記入した。

A         ほり(水路)について

    ほりは特につくっておらず、すぐ近くを流れる江里山川から水を引いている。大きな水路はこの部落に3つあり、川に近い方から、桶久保井手、村井手、平水路という名がつけられている。桶久保井手はこの大塚からふもとの江里口まで続いている大きな水路らしい。村井手は田よりも集落のためにある水路で、平水路は“大平”とよばれる田にまでひいた水路だった。

    近くの江里山川には大塚部落の近くに2つの橋があるが、はじめにできたものが江里山一号橋で、次に大塚橋ができた。いずれも道路が整備されてからできた橋で、それ以前は江里山一号橋付近に大きな石をおき、飛び石のようにしたものをつたえとして川を渡っていたらしい。おととしの水不足の時は、川が近かったこともあり水田には何ら影響はなかったらしい。しかし山のみかん畑(果樹園)では水が不十分だったため川から水まきをしたということだ。その山の杉などの植林では木が枯れたりもしていたらしい。

B         村の様子

    豊作を願っての祭のようなものが5月1日に行われる。その祭は「おんだまつり」という。(どこでもしているだろう、とおっしゃっていた)

昔は部落の女の人が集会をしていて(この集会は年をとった人からは“ろくやさん”と呼ばれていたらしい)、住民からお金を集め、その貸し借りをして小さな銀行のようなことをやっていたらしい。

今でも集会はあるが、お茶会のようになってるとのことだった。

C         村の問題点

     核家族化が進んでいるので後継者不足が一番の問題だとしきりにおっしゃていた。

D         感想・成果

    お話をうかがった人が比較的若かったので詳しいことは知らないということだった。

部落の中で一番年輩の方は病院に入院していたり、婿養子でこの村にきたという方だったりと、昔のことをよく知っている方で元気な方はこの荒川さんくらいだった。部落といっても家が数軒建っているくらいで道も狭く、とてもわかりづらかった。

 

 

 

調査場所 江里山>

お話をうかがった方…久米 修さん(大正11年生)

         (小城町議会議員  経済委員長)

 

@         江里山部落について

この江里山地区は98代天皇の時代にできた部落で当時は山までも水田であった。耕作面積も広く60戸ほどの農家があったという。

昭和10年に部落に電気が通り、昭和49年〜54年にかけて道路整備が整った。終戦後は部落の戸数が35戸ほどに減ってしまった。

現在は29戸あるうち28戸が農業を営んでいる。耕作面積は減り、山は果樹園となった。現在、この江里山地区を開発しようと議会でもかなりの力をいれているらしい。昭和62年にはこの地区のひがん花畑が景観100選に選ばれた。棚田には9月中旬になるとひがん花が真っ赤に咲き、とれもきれいらしい。(写真を見せていただいた)観光地にしたいそうで、休憩所や村の看板も建てられていた。今は江里山観音を整備中で、この観音は部落ができた時のもので、樹齢600年の年木もあるということだ。

A         しこ名について

はじめは田の小字を教えてくれたので、よく説明して、しこ名の方を教えてもらった。奥さんと2人でいろいろと言いあいながら、思い出してくれた。かなり多くのしこ名を教えてもらった。

B         ほりについて 

かなり多くの水路があった。昔は水不足の時、水無などの田で水争いがあった。おととしの水不足の影響はあまりなかった。そのときにみかん畑にポンプをとりつけたらしい。今年が、雨のふりすぎで逆に大変だった。

C         問題点

この部落でもやはり後継者不足ということで65歳以上が28%を占めるらしい。若手がいないことで、公園・道路の管理が心配される。現在圃場整備を申請しているが、まだされていないので(大塚地区は去年にしたらしい)大きな機械が使えないらしい。また、いのししが出て農作物をあらしたりするのでこの対策も大変だという。今は電気柵をはりめぐらせている。

D         感想

かなり多くのしこ名がきけたと思う。お話をうかがった方はこの地区の発展に力を入れてらっしゃる方で、話がききやすく、村のこともとても詳しかった。かなり山奥といった感じらしく、で“車できました”というとしきりに“大変だったでしょう”といってくれた。

 

江里山地区の田のしこ名

地図(佐賀県立図書館所蔵)中の数字と一致

@         堂の浦        R 久保の谷

A         山道         S といしごう

B         どんそで       21 かみやま

C         かねいし       22 みようが原

D         山の神        23 米野

E         堂徳         24 作道

F         二反田        25 小敏町川

G         神年田        26 横道

H         辻の東        27 井手の下

I         七曜の滝       28 ごく手

J         大川         29 ほうとう山

K         原の川        30 こいかつか

L         原の浦        31 まるお

M         ふじお        32 ぬかつか

N         とがりお       33 水無

O         原のまい       34 おさぎ

P         大谷         35 小谷

Q         地獄谷

 

         24,25はもう少しこまかい地図でないと示せない田のしこ名

らしい。場所は26付近

 

山の名前

    A どうの山     E りゅうおうさん

    B 七面山      F にた

    C まるお

    D 松本山

 

 

<調査場所  馬場部落>

 お話をうかがった方… 江里口 耿雄さん(大正3年生まれ)

 

田ん中、山、谷、などのしこ名は地図に直接記入しました。(田ん中にしこ名はほとんどないといわれました)江里口さん宅にはかなり長時間おじゃましていろいろ雑談を交えた話をしました。

江里口さんは大正3年生まれで現在80歳になられるかたでかなりご年配にもかかわらず毎日1時間〜1時間半散歩をされているそうです。この馬場部落は56戸の家々がありまた老人は58人ほど、そしてこの部落での最高齢者は男性で91歳女性で97〜98歳だそうです。けれども今現在散歩を自由にできる老人は3人ほどでほとんどの方はあまり自由に身動きがとれないということです。その3人のなかにはいっている江里口さんという方がとても話をするのが好きな方で、しかも昔は食糧増産の指導のため北海道から沖縄までありとあらゆる地域をおとずれたという元気者だったようです。また、小城町は昔そうめん、うどんをつくっていて、江里口さん宅でも昭和6年までうどんの製造販売をしていたとのことです。

 

・村の水利のあり方

水田にかかる水はぎおん川から取り入れ。またほくごう(北郷)という井びから取り入れ、この北郷は生活用水もかねるため、18部落とほん町、おか町、大手町、しょうとく町、浅井町の5町も負担しているとのことです。

一方配分に際しての特別の水利慣行はこの時間にこの部落がという時間制限があったそうです。過去に水争いはなく、井び番の手当ては組合からでていて今現在では年間6000円ほどです。また非かんがい時期のゴミとりはしないそうで肥料になるようなものはないとのことです。

1994年時のことについてたずねましたが特別にやった水対策というものはなく節水をした程度だそうです。他村からのもらい水もなく時間給水や犠牲となった田もなかったみたいです。ただ時間給水をこの部落では「はずみず」というそうです。もし30年前であればという問いに対してはお互い権利を主張してばかりで話し合いもできず水田はおそらく枯れたかもとおっしゃいました。江里口さんの話によると昭和26年が相当ひどく、ジュディフ台風によって家が流され砂っぱらになってとても大変だったそうです。江里口さんいわく戦後、アメリカの女の人の名前が台風につけられていたみたいです。地主に相談しながら事をすすめるとお互い自分たちの権利ばかりを主張してきれいな道路が整備されないということです。

  

・村の範囲

 村の範囲は地図に書き込みました。一方、村の共有の山林はあったそうです。

・村の耕地

この部落ではやはり米がよくとれるところととれないところの場所による差があったらしく昭和20年ごろは良い田で1反あたり500〜520s、悪い田で240〜250s(1俵60s相当)だったということです。佐賀県は昭和30年代米の生産日本一となり1反500〜520sくらいとれる田が多く存在していたとのことです。現在では平均1反につき400sくらいとれる田んぼが多く残っているとのことです。

裏作はおもに麦をつくっていて以前は佐賀平野では5〜6月ごろに麦をとり6月末〜7月に田うえをしていて麦は1反につき300sほどとれていたようです。ちなみに今は田うえは6月初め〜6月20日ごろで田うえ期間は2日くらいだそうです。一方東北は麦は7月ごろとれ北海道になると7月末〜8月にとれるため裏作はできずまた戦前においていうと東北では3町つくらないと九州の1町の米と同じ量はとれなかったようです。九州では1万平米つまり1町ぶんの田んぼがあったら安定した生活がおくれたようです。1000平米が1反です。山口くらいになると1町5反ほど田んぼが必要だったみたいです。あと戦前には人糞や草、木、石炭などを肥料にしていたようです。

 

その他

江里口さんにはとにかくいろいろお話をうかがいました。なかでも印象に残ったのが鹿児島はタライも物干し竿も男と女では違うということです。もちろんのことながら、男性が風呂も先だしとにかく男尊女卑の風潮が強いそうでした。物干し竿も違うなんて驚きました。

あと、今の福岡にある呉服町や千代町は昔は500mくらい先にあったということです。今の博多駅というのはあの辺は湿田だったらしく南のほう(筑紫口らへん)はうんとあとからできた町だそうです。

あと、農作業についてですが農作業は農かん期には江里口さんが青年時代、昭和のはじめころは夜なべして、むしろをつくっていたそうです。むしろとは、今はほとんどしないそうなんですが、昔はこめや麦は干していて、その干すときに下に敷くもののことです。江里口さんが熱く語ってらっしゃったことが、「やはり太陽の光にあてたほうが絶対にいいんだ、太陽の恩恵をうけたほうが絶対にいい」ということでした。あと足踏みの機械で「かます」という米をいれる袋もつくっていたそうです。

最後に、今後の日本の展望をきくと、やはり今は農薬の使いすぎということを気にしていらっしゃいました。とにかく昔からいろんな農村をたずねていってはいろいろと指導をなさっていたそうで、いろいろなお話をしてくださいました。自分は今現役の農家をしりぞいているけれども、まだ体が若いならばやはり農作業をしたいとおっしゃたのが印象的でした。

 

 

<調査場所 江里口部落>

 お話をうかがった方… 江副 七三郎さん(昭和13年生まれ)

 

田ん中、山、谷などのしこ名は地図に直接記入しました。

 

江副さん宅には短時間しかいれなかったのであまりいろいろなお話はきいてませんが、農業の今後の展望はとくにあつく語って下さいました。

 

・村の水利のあり方

水田にかかる水は江里山川から引水されていてため池はないそうです。江里口だけの単独の水利としては水田のみに使ういぞんわらをあと新いでがあり、二瀬川、大日と3部落で共有の水利としては消防いで村いでがあるそうです。配分に際しての特別の水利慣行や水争いなどはなく、いび番もないそうです。ゴミとりは関係者が行いまた1994年の時の水対策はこれといってなく、もらい水や時間給水などもまったくなかったとのことです。ただ30年前におこってたならみかん山などにポンプでひきあげる水の量が今よりはもうちょっと多かっただろうとおっしゃいました。

 

・村の範囲

 村の範囲は地図にかきこみました。一方、村の共有の山林はあったそうです。

 

・村の耕地

この部落でもやはり米がよくとれるところととれないところの場所による差があったらしく、良い田では1反につき540s、悪い田で1反辺り360sくらいとれるということです。肥料はやはり人糞や草、木、石炭などだったということです。

 

・その他

江里口さんは昔のお話を少ししてくださいました。西の方から流れてきた人、いわゆる落人の左近さんの話をききました。8月30日には子どもがすもうをして祝うそうです。その左近さんの子孫にあたる人が小城町長2代目の吉富いちごろうさん、という方だそうです。

また、長崎県の坊の前にドロガイさん(雷)がきてそれをお尚さんがほうきでおさえつけて「2度と、うちの村に落ちたら、とがめるぞ!!」といったために雷が落ちなくなり、お寺はお不動さんをまつっていて7月28日には主に子供たちが「なんまいだー」とするそうです(じゅずまつり)

農業人の展望をお聞きしました。まず農業経営は機械化になりすぎて労賃と農作物の単価が外国に比べて釣り合っておらず、だんだん今は厳しい状況に追い込まれていくとおっしゃっていました。釣り合えば、後継者ができるといわれました。今この部落では後継者が足りず、しかも高齢化しており、1番若いひとで42〜3歳の人だそうです。外国と日本の労賃の差額がありすぎるというのを、とにかくおっしゃってました。あと庭先販売ができたらいいとおっしゃってました。今は農家→国→家庭というルートで米は家庭にいきわたるけれど、とにかく中間マージンがとりすぎ、というようなことを言っておられました。下に図でしめすと、

   

   農家   →     国     →    家庭

     1俵17000〜     1俵35000円

     18000円

とこのようになり国があいだに立つばかりに農家はだいぶ損をしている、とのことでした。おととしの米不足のときは、京都で1俵70000円で売られていたということです。だから庭先販売ができたらいいのに、とおっしゃってました。江副さんはまだお若かったのですが、農業についていろいろと考えていらっしゃるんだなぁ、と非常に感心させられました。



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