西晴気  一本松  米ノ隈

 

川原 聡    小江 敏明   小畑 裕路

 

西晴気地区   松永 袈裟徳(けさのり)さん

  今のすぐ横に畑をもっておられてその日も奥さんと農作業をされていた。

  西晴気はもともと長崎自動車道の下にあったのが今の場所に移ってきたそうで、松永さんたちは13年前たちのきにあったその数12戸。西晴気が一番多かったそうである。

  西晴気の水利は直接晴気川からすぐではなく郷の木のいせき(川から水をひく水門)中島のいせき、中善寺の島田のいせき、松葉の大井手のいせきこの3つから水を引いている。つまり西晴気専用のいせきはない。また前にもいったが、松永さんたちは13年前に今の西晴気にうつってきた上に2年前、H6年の区画整備で昔の田んぼの形をとどめておらず、もうどこがどういうしこ名だったかもうわからないといっておられた。ちなみにしこ名だけを暗唱してもらったら「りんのうち わかみやもり(木のたっている家をさして、そこに宮があったからといっておられた)、すきはば、馬石、竹の(ん)家」とのことだった。

  区画整備は昔あった小城炭鉱のためにおこった地盤沈下のせいで国の予算でなされたもので鉱害復旧といっておられた。晴気川は天山から流れてくる川で八頂ダムがあるそうである。三十年前の地図をいただいてきてありがたい。

 

一本松地区     野中 利光さん

  田んぼのしこ名をきこうとしたら、一本松古墳のことをきいてくるのかとおもってらっしゃたらしく、少々面食らっておられたが、実際、松永さんは田んぼをもっておられない。みかん畑はもっているとおっしゃて、詳しい人を呼んで下さると生産組合長で最初におとずれた池田さんを呼んでいただいた。すると、池田さんは田んぼのしこ名はわからない、私の1つ2つ前の世代の話だとこちらも親切に話していただいたが、わからなかった。台帳の中には申告票と異動連絡票とあったが、そこに徳武、二本松その付属で二角、六角、十角、十二角とあったのがせいいっぱいだった。ちなみに、野中さん宅が徳武と昔よんでいたことはいっておられた。

 

米ノ隈地区     松永 晃さん

  2,3年前にも同じ九大生がきたといっておられたが我々のために近所の数多くの松永さんが集合して、しこ名を教えて下さった。地図に書いて、地図もいただいた。松永さんはもともと久留米の人だそうで佐賀をすこし敬遠するかまえをとりつつも小城の将来をあつくかたっておられた。そして野中さんの話がでたが、もともと野中さんの家族の誰かが小城炭鉱の勤めた事で小城に引越してきて1本松で奥さんと結婚したそうである。だから、わからないのもわかるといっておられた。



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