64班 参加者…・三根崇毅、横尾崇 調査した村 久蘇 聞取した人 吉村燾子(としこ) 59歳 ① 下村一夫 75歳 ② 吉村勝義 62歳 ③ ①の方 あまり覚えていないとのこと。ある程度の場所はわかるそうだがあいまいらしい。地籍図にある三ヶ所の神社は圃場整備のときに一ヶ所にまとめたそうだ。村の範囲は地籍図どおりで、一つの村。上田、中田、下田はなく、どの田も同じぐらいの米が取れた。麦はだいたいどこでも作れたそうだ。 ②の方 三人の内で最もくわしく教えていただいた。戦後仕事を探して役所で働いたそうだ。15年前まで働いていたので、役所の写しの圃場整備前後の地図等を持っていた。まず、用水は「ほっこいで」から水をひいていたそうだ。 その場所はかなり北の方だということだ。また、この土地は西の方が高いため、各水路から東側に水をひいた。そして、この村の北にある畑は、水路を作る時に掘った土で作った畑だそうだ。東側にある家の方が古く、堀でかこまれていたそうなので、その家の前を「むらまえ」、後を「むらうら」というらしい。現在、その家は二軒残っていると聞いたのでたずねてみたが一軒は留守でもう一軒は何も知らないとのこと。他に上田や下田はあったか、麦はどの湿田でも作れたのかという質問をしたが、やはりわからないそうだった。また、×印(地図あり)には、広域農道、圃場整備施工記念碑が建っていると教えられ見に行った。 ③の方 この人がこの村の区長さん。はじめにたずねたが留守のため最後にまわった。三人とも共通することであるが、しこ名が一町区画ごとにあるわけではなく、広い範囲だったり間にあったりした。しこ名をたずねると「○○さんちの田」と言うだけで特に呼び名はないという田も多かった。上田や下田はなかったのかという問いにおうかんより北、つまり「おうかんうえ」の方が少し収穫高が低かったとの答えだった。 他にも7~8軒まわってみたが、だいたいが仕事だとか、自分は知らないとの ことだった。次に西川にも行ったが一時間半かけて何もわからなかった。ただ 東西に走る広域農道付近を「西川宿」と呼ぶということがわかっただけだろう。 |