小城町調査班

 

12月20日実施 (車で)

橋爪 陽亮

  児玉 啓

 小隈

話者:馬場健次郎さん(昭和13年生まれ 区長)

   馬場梅雄さん(大正9年生まれ 元役場の助役)

 

田畑

小隈

タクラマチ

ショウリンドウ

ショウズ

オオエゴモリ

桑鶴

調査不可能

(あまりにも山道すぎて、歩いては絶対に行けない)

・イッポンエノキ(一本榎)、ニホンエノキ(二本榎)

小隈で登録してある田畑の正式な名称。全て番号で田畑が登録してある。

馬場健次郎さんにその資料を見せてもらったが、昭和46年時点ですでに一本榎、二本榎で分類がなされていた。

・メンダ(免田)

これはその集落の田んぼであって、神さまにまつる田んぼとして管理されていたらしい。

近くの天満神社に行くが目ぼしいことは何もなく、昭和3年に建てられた石碑があるだけだった。

 

水利権について

古い人がいないのでよく分からないらしい。それが分かるのは健次郎さんよりも前の世代。(健次郎さんは終戦後に来たのでよく知らないとのこと)

 

 

*桑鶴について

実際に行ってみるとものすごい山道だった。また外灯もなかったので夕方から夜にかけて行くのが困難だった。軽自動車に大人4人では登るのがつらい。一度引き返して道を確認してみると、道はちゃんと合っていた。

山のふもとの川原というところで住人に聞いてみた(北島みちえさん昭和5年生まれ)ところ、「山頂に雪があるかもしれんよ」「今からもう夜になるよ」「また明日来んしゃい」こういう事を言われた。また、最初に行った町役場でも「桑鶴か。えらい遠い所に行くね。地元の人でも40分はかかるよ。そいぎ最後に行きんしゃい。」と言われた。このことは事前調査の不備であったと家に帰って反省した。

 

上右原

 

白土 竜馬    段野 雄亮

 

しこ名一覧

 

田畑

小字 上右原のうちに

カケヤシキ

フッコウ(古溝)

オミヤマエ

ミズマチ(水町)

 

ほか

ハチリュウ(八竜)

上右原中心部一帯の呼び名

 

    カケヤシキについて

昔、何軒か家がありその中にかなり大きなやしきがあったことからこの名

がついたらしい。

 

    フッコウについて

昔、用水路があったためこの名がついたらしい。

 

 

水利権について

 かつて下右原に対して、水利権があったが、現在はない。

 大正4年ぐらい、牛津川を使用

 

 六角川に潮があがってくるとき→アオをとる

 しかし現在は利用していない(農業用機械の発達のため)

 

 

 

お祭りについて

 9月15日…・ 願成就祭(ガンジョウジュサイ)

         この辺り(上右原周辺)は海抜が低く、水害になりやすかった。そのため水につからないよう、祭を行っている。

         豊作祈願

 10月15日…・ 供日(クンチ)

         新米の喜びを神様に感謝する祭り。

 

 これらのお祭りは下右原とともに行っている。

        ↓

 何をするにも鏡神社を中心に行っている。

 

 

 

小城町 湯の谷

             話者:松永 敏之♂ 昭和3年生まれ

                唐島 一 ♂ 大正15年生まれ

 

 ※  しこ名    小字湯の谷のうちに

   ヒメコジョウ…・ 鏡山の中腹に姫御前古墳があるため、この辺り一帯を

           ヒメゴジョウと呼ぶようになったらしい。

 

湯の谷の名前の由来

   大正時代、三菱の炭鉱があり温泉が出るといううわさもあって、人が集まり飲み屋も一軒あったらしくこの辺を“湯の谷”という俗称で呼ぶようになった。

 

姫御前古墳について

   直径二十五メートルの円墳で、内部主体は横穴式石室である。古墳時代後期に築造されており、この石室は県下でも有数の巨大なものである。

   とりあえず好奇心から中に入る。3mほど狭い通路をしゃがんで歩くと中がひらける。かなり広いものだ。石と石のすき間から、光がさしこんできており、中の様子がかすかに見えた。枯れていない花が供えられてあったことから、度々ここに来ている墓守のような人がいると思われる。

 

 

    現在湯の谷に住んでいる人達は全て昭和21年以降(終戦後)の開拓民であるため、昔の様子を知る人は存在しない。

 

※ 湯の谷の景観…・ みかん畑があちこちで見られたが、田んぼは見あたらな。い。 

 


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